ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

今ごろ『ヱヴァンゲリオン 新劇場版:序』

一昨日、ようやく『ヱヴァンゲリオン 新劇場版:序』を見た。舞浜のシネマイクスピアリ。観客は5人ぽっきり。
伏線をはり直して、画像のクオリティを高くして――という素直なヴァージョン・アップだと思った。TV版でも、ここらへんまでの内容は、まだ普通のドラマだったわけだし。
(注:以下、物語の先の展開にも触れる)

エヴァンゲリオン』と『包帯クラブ

コトブキヤ ヱヴァンゲリヲン 新劇場版 綾波レイ プラグスーツver. 1/6スケールPVC塗装済み完成品)
久しぶりに、包帯で真っ白な少女、綾波レイを見て、『包帯クラブ』を思い出す。
かけがえのない個人が傷を負う。傷だらけの体が、その人の心に残された消せない傷の存在を暗示している……と思ったら、彼女はクローンの1人にすぎず、いくらでも取り替えのきく存在だった。――それが綾波レイであり、彼女の包帯や傷は、ある種のフェイクでしかありえない。
一方、天童荒太の『包帯クラブasin:4480687319は、その人の心が傷ついた場所に包帯を巻き、癒しを求めるという発想を中心にした小説だった。傷ついたこと自体に向き合うのではなく、そのことが起きた場所のほうに注意をそらすこと。そこに巻かれる包帯も、一種のフェイクだろう。
2006年に刊行された『包帯クラブ』は、95〜96年にTV放映された『新世紀エヴァンゲリオン』以後の、ポスト綾波的な、傷に関する想像力の土壌で書かれた小説と思える。その映画化と、『エヴァ』の再映画化が同じ年になっためぐりあわせが、自分には面白かった。

〈Beautiful World〉と〈Be My Last〉

Beautiful World / Kiss & Cry

Beautiful World / Kiss & Cry

Be My Last

Be My Last

『ヱヴァンゲリオン 新劇場版:序』の主題歌は、宇多田ヒカル〈Beautiful World〉。これを聞いて、彼女が映画『春の雪』のために作った〈Be My Last〉を連想した。
まず、それぞれ映画との距離感が似ているのだ。〈Beautiful World〉は、『新劇場版:序』のために書かれたわけだが、「もしも願い一つだけ叶うなら 君の側で眠らせて」という歌いだしは、むしろ以前の劇場版のラストを思い出させる。浜辺にシンジとアスカが並んで横たわっていたアレだ。
一方、三島由紀夫原作『春の雪』用に作られた〈Be My Last〉は、これが最後になればいいという感情が詞の核になっている。それに対し、『春の雪』はもともと、輪廻転生をテーマにした『豊饒の海』四部作の第一作として書かれた小説だった。だから、〈Be My Last〉というフレーズは、むしろ四部作のしめくくりにおいて歌われてもいいものだ。もう、生まれ変わるのはこれを最後にしたい、というような意味で(実は、宇多田は四部作どころか、『春の雪』原作を読む前に、シナリオだけを読んで詞を書いたらしい。でも、結果的に『豊饒の海』全体に似つかわしい内容になっている)。
〈Beautiful World〉も〈Be My Last〉も、長大な物語の一部に対応する主題歌として発表されたのに、内容は物語全体を示唆するものになっている。この点が2曲に共通している。
また、「母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日がくるの?」という〈Be My Last〉の出だしは、『エヴァンゲリオン』にも当てはまるような内容だ。『エヴァ』は(旧劇場版でいえば)、母子の感情の葛藤が、美しい世界を壊すに至るような物語だったのだから。
さらに、『豊饒の海』は転生を追う物語でありながら、最終作『天人五衰』において生まれ変わりはフェイクであったと空虚な結論が突きつけられる。このへんも、綾波の存在がクローンでフェイクでしたという『エヴァ』の空虚さに、感覚的に近い。
というか、〈Be My Last〉と〈Beautiful World〉に共通する要素こそ、宇多田的な世界観なのだろうし、彼女をフィルターにすると『豊饒の海』と『エヴァ』が近く見えるということなのだろうが。

  • 19日夜の献立
    • かき玉(塩、こしょう、小麦粉。サラダオイル。にんにく、しょうが、長ネギのみじんぎり、ケチャップ、香酢、欧風だし)
    • 小松菜のおひたし(かつぶし、ポン酢)
    • 豆腐とわかめの味噌汁
    • 玄米ごはん
    • 発泡酒、チューハイ