ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

ポスト青春小説論序説

(「クロ(ック)ニクル/グラフィティ」 No.3 2004/09/18 記)
ユリイカ9月臨時増刊号 総特集西尾維新』に掲載された「空転する痛み――西尾維新における傷の無意味と意味」は、第一稿を大幅に改変した。最初はもっと広い問題設定にしようとしたが、自分の手にあまってしまったのだ。そこで第二稿を書く際に、ばっさり捨てたのが以下にさらす2ブロック分の文章。読み返しても大雑把で粗すぎる議論だと思うが、いずれ書き直したいという欲もなくはない。文中に出てくる「ポスト青春小説」は、「ファウスト」的な青春小説といった程度の意味。

『青春の終焉』の終焉

〔柱の傷はおととしの五月五日の背くらべ〕
大正時代に発表され、今でもよく知られている曲「背くらべ」の歌いだしである。作詞した海野厚は七人兄弟の長男で、毎年五月五日に実家に帰省し弟たちの背を測ってやったという。それを題材にした詞だが、ある年帰省できなかったので、「おととしの」という内容になったと伝えられる。帰れなかった理由は病気療養だとか、亡くなったから「おととし」のままになったとか諸説ある。――これらの話を聞いて浮かぶ感傷(ルビ:センチメント)。そこには、たとえ自分では経験していなくても、懐かしさが含まれているはず。少子化になるはるか前の大家族の風景があることも一因だろう。それと同時に、柱から連想される安定性が、甘い贋の追憶を呼び込むのだと思う。誕生した後、病気も含めいろいろあって後、終いには死にたどり着く。そんな成長過程を見守ってくれる親兄弟、実家、その背後にある社会の安定性を夢想させてくれる、ちょっと傷つけたくらいではビクともしない柱。かつて柱で象徴されたごとく、自分の成長ぶりを確認し競いあうための尺度があった(と追想される)。その尺度と齟齬があった時、外部のものを傷つけるか、自傷行為に及ぶかするわけ。心理的な意味をおびた傷を刻むエネルギーは、本来は「背くらべ」の柱の傷みたいな傷に向かうべきなのだ。
大正からさらにさかのぼり、明治期に樋口一葉が書いた「たけくらべ」。この短編では、江戸期の身分制が崩れて登場した学校制度を後景に、互いを比べ始めた子どもたちの群像が描かれる。だが、地縁や階級、貧富の差によって、信如は僧侶に美登利は遊女にという風に登場する子どもたち一人一人の将来は動かしがたく、互いを比べてもしかたのない状態がある。その旧い尺度と新しい尺度のズレに生じた哀感を一葉はすくいとる。
たけくらべ」、「背くらべ」のように、周囲を相手に自分の成長ぐあいを測ったり比べたりする態度は、以後も思春期や青春を題材にするストーリーの基底であり続ける。だから、柱の傷に相当する“自分を測ること”にかかわる傷のテーマが、繰り返し描かれてきた。
三浦雅士は『青春の終焉』のあとがきで「たけくらべ」に触れ、成長が許されるのは階級的に限られていたと記す。そのうえで、成長する市民階級男子=「青年」の物語が、企業、社会、国家、経済の成長物語と同時に流布した時代があったと説く。三浦がこの評論で、六八年をピークにして七○年を境に“終焉”が始まったと定義した“青春”とは、そのようなものだ。そして、私がこの西尾維新論を書くに際し、編集部から与えられた仮タイトルは「『青春の終焉』の終焉」だったりする。
三浦はそのあとがきで、『青春の終焉』後の風景を先どりしていた表現者手塚治虫がいたとして、鉄腕アトムが永遠の少年だったことに日本近代文学=“青春”の文学への意図せざる痛烈な皮肉を読み込む。手塚には、薬によって女の子の身体が一気に急成長したり退行したりする「ふしぎなメルモ」という作品もあったことを思い出す。これは“青春”への皮肉が感じられる点でアトムのヴァリエーションであり、りすかのルーツである作品だ。メルモとりすかの中間地点には、やはり三浦があとがきで触れた萩尾望都ポーの一族』(吸血鬼もの)などの少女マンガをおける。
近代市民社会における個人それぞれに応じた成長がありうる可能性=“青春”は、大学の大衆化(たけくらべ、背くらべすることを無意味にする均質化)を経て失効した。――『青春の終焉』を乱暴に要約すると、そうなる。ここで興味深いのは互いがそう企んだはずがないのに、大塚英志の『サブカルチャー文学論』(「文学界」九八年四月号から二○○○年八月号までの断続連載がベース)が、あたかも三浦の『青春の終焉』(「群像」の○○年一月号から○一年四月号にかけて掲載)の続編であるみたいに読めてしまうこと。まるで、“青春”とオタクが交代したかのように。
『青春の終焉』では、三島由紀夫太宰治の引き立て役として登場させられるだけで、“青春”の輪廻を題材にしつつ四回目はフェイクだったとおとす七○年完結の大作『豊饒の海』には触れていない。庄司薫が六九年に発表しロングセラーになった青春小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』も出てこない。小林秀雄がらみで江藤淳を登場させても、彼が六七年にまとめた評論『成熟と喪失』にはスポットが当たらない。『青春の終焉』の時期に深くかかわっていたのに三浦が中心的に扱わなかった著作群、あとがきで後日談的に触れた手塚治虫や少女マンガ。これらを出発時の枠組みに用いてライトノベル(大塚の用語では「キャラクター小説」)的な価値観がせり出すまでの文学史を作ってみせたのが、『サブカルチャー文学論』だった。そのライトノベル的価値観の現時点での突端が「ファウスト」系の作家たちであるのはいうまでもない。その意味で彼らは、ポスト青春小説の作家だ。
大塚の物語消費論に参照してデータベース消費論を構築した東浩紀は『動物化するポストモダン』で、七○年前後に多くの人が理想として共有した「大きな物語」が凋落し、ポストモダンが始まったとする史観を提示した。そのうえでオタク論を展開し、ライトノベルに関連する諸ジャンルを語った。その「大きな物語」の凋落を、ロマンティックに語っていたのが『青春の終焉』だったといえる。逆にいえば、大塚、東など、ライトノベルを評論的にいま眺める枠組みを用意した人たちはみな、『青春の終焉』を暗黙の前提にしているような立ち位置に結果的になっている。さらにひっくり返していうなら、清涼院流水を嚆矢とする「ファウスト」的な感覚(痛みの空転、「くらべ」の無意味化)が浮上するなどして、いよいよ『青春の終焉』過程が終焉したことに感づいた人が増えた時期になったから、ノスタルジーによって、文芸評論としては珍しく『青春の終焉』が版を重ねたのだろう。

監視される者による小説

斎藤環は『心理学化する社会』において、心理学的な発想が過度に流通する現在を批判した。それとともに、精神分析的発想で現代社会を読み解くのは困難になり、システム論的発想を借りる場面が増えたと書いている。またシステム論では、システムの構成要素と作動条件が必要なだけで原因や歴史は問わない。〔だからシステム論は、「個人の固有性」や「セクシュアリティ」、あるいは「言語の獲得」といった、人間において普遍的、かつ一回限りの過程を解き明かすことが苦手だ〕と述べた。これら「 」でくくられたことがらの一回性を輝かしいものとみなしたのが、三浦の意味での“青春”であり、斎藤が語る「システム論」論もポストモダン論である。斎藤は「小説トリッパー」の連載「破瓜型病跡システム」で西尾維新に触れ(○四年夏号)、本人の発言を引用しつつ、この作家が小説をシステムとして構築しようとしていることに注目する。斎藤は、〔もちろんこの種の「システム」にすら、作家の固有性は刻印されてしまうだろう〕としつつも(この「刻印」は傷と読み換えてもいいはず)、西尾がシステムに親和性を持っていることに肯定的態度を示す。それでは、ポスト青春小説の作家にとってシステムとはなにか。
斎藤は『心理学化する社会』において、心理学化(「精神分析のシステム論的応用」と説明される)が、マクドナルド化や監視社会化につながったと記述する。このうち監視社会化を日本で推進する力になっているのは、外国人犯罪の増加とともに少年犯罪の増加である。統計的妥当性とは無関係に、増加イメージが蔓延したことが推進力になっている。子どもが被害者になるケースが増えるのと並行して、少年が加害者になることも増えた。そのうえ、子ども被害者と少年加害者の境界線はないように感じられる……。人々のそんな皮膚感覚が、「戦場としてのストリート」、「要塞化する学校」(いずれも五十嵐太郎が監視社会化の実態を整理してみせた『過防備都市』の章題)に監視カメラをはじめとする防犯アイテムを次々に導入する動機になっている。
こんな監視社会化の文脈では、子どもや少年少女一人一人の個人史や固有性は問われず、彼らはシステムの要素として扱われる。また、彼らが傷つけられるかもしれない/傷つけるかもしれない、心的外傷後ストレス障害を残すかもしれないと、あらかじめ傷を予測するからこそ監視するのだ。監視のなかにいる者たちにとっては、カメラの向こうから自分の傷を先どりされ事前に奪われ空洞化させられたともいえる状況であり、あらためて自分が傷つけ傷つけられても痛みが空転するのは無理がない。
酒鬼薔薇事件以後、世間が少年に向けるようになった視線をさんざん浴びてデビューしたポスト青春小説の作家たちには、カメラの視界のなかで、監視者たちが懸念する(=期待する)症例をわざと演じているみたいな、一種露悪的な暴力趣味がある。西尾の高校を殺戮空間にした『クビツリハイスクール』は、そのわかりやすい例。しかし彼らの作品のなかには、監視者たちの懸念や期待からズレて、滑稽さや無意味にまみれながらも奇妙な生々しさをおびるものがある。ポスト青春小説に可能性があるとしたら、そのズレにこそあるはずだ。

クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子 (講談社ノベルス)

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