ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

ベスト10システム上に焦点化されたX

(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 6)

笠井潔が、『容疑者Xの献身』論争で書いた文章をまとめて収録したミステリ論集を、昨年暮れに発売した。これも一つの機会だろうから、最低限のコメントをしておく。

探偵小説は「セカイ」と遭遇した

探偵小説は「セカイ」と遭遇した

本格ミステリ界を騒がせた『容疑者X』論争の経緯については、こちらが詳しい。 → 「X論争黙示録」http://longfish.cute.coocan.jp/pages/2006/061009_devotion/


『容疑者X』論争からは、批評論争といえるものが派生した。
(それについては、こちら
http://longfish.cute.coocan.jp/pages/2006/061009_devotion/4.html#id0003
千野帽子「批評のこと。」http://d.hatena.ne.jp/noririn414/20080117#1200522666
笠井は、限界小説研究会『探偵小説のクリティカル・ターン』asin:4523264694所収の「批評をめぐる諸問題−−おわりに」でこの批評論争に触れ、[宣伝ビジネスの要求に応じて書かれた紹介や書評の類と、本来の批評はどう違うのだろう]という問いをめぐり考察を繰り広げている。彼は[批評として書かれていてもクズがほとんどだし、形は書評でも批評的な文章が書かれうることを示している]と記しはするが、その態度は結局、[コメントと批評を同一視するわけにはいかない]の一節に代表される通り、批評の優位を主張していた。そして、『容疑者X』論争の一環として書かれ『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』に収録された「ベルトコンベアは停止した−−コメンテイトとクリティックの差異」(初出「ミステリマガジン」2006年12月号)という論考の延長線上に、「批評をめぐる諸問題」は書かれていたのだった。
「ベルトコンベアは停止した」では、 [ベルトコンベアを流れてくる玉子をL玉とかM玉とかS玉とか、サイズで仕分けること]にすぎない論評(コメンテイト。レヴュー、書評)に対し、批評(クリティック)の優位を訴えていた。
http://longfish.cute.coocan.jp/pages/2006/061009_devotion/4.html#id000302
東野圭吾著『容疑者Xの献身』が、探偵小説研究会編著『2006本格ミステリ・ベスト10』の1位になったことが論争の発端だったことを考えれば、笠井がベルトコンベアに喩えたのが、『本格ミステリ・ベスト10』というシステムであることは間違いない。もともとこの『ベスト10』は、広義のミステリのなかから本格ミステリ作品を[仕分け]、評価するためのブックガイド・ムックとして始まったのだから。
しかし、私はここ(http://d.hatena.ne.jp/ending/20081018#p1)で書いたように批評と論評(書評)の関係は、もっと入り組んだものだととらえている。笠井のごとき硬直化した批評原理主義には、与しない。
例えば、コメンテイトやレヴューを集積することに関し、重宝される手段としてベスト10システムがあるわけだが、それと並んで多用されるのがマッピングである。縦軸と横軸にそれぞれ基準を設け、個々の作品や人を配置し[仕分ける]。つまり、マップという手法は、もう一つのベルトコンベアだ。ある領域を一望できるかのような見取り図としてベスト10の表、あるいはマップを提示し、それとの対応で個々のレヴューを配置する手法は、80・90年代以降、一般化している。
一方、『探偵小説のクリティカル・ターン』のあとがきとして書かれた笠井の「批評をめぐる諸問題」では、同書がコメンテイト主義の蔓延する現状に対する[挑発]として出される“批評”書であることが強調されている。しかし、『探偵小説のクリティカル・ターン』は、蔓葉信博が作った「ミステリ・マトリックス」というマップがまず冒頭に提示され、その後に作家論、テーマ論が並ぶ構成になっている。収録された一本一本の論考は、いかにも批評らしい言葉使いで書かれているが、本全体はブックガイド・ムックを擬態するような編集方針がとられているのだ。私は、現在の出版状況・読書環境に切り込むにあたって、この編集方針は妥当なものだと思う。
だが、マップを作った蔓葉や、同書の編集長役だった小森健太朗という、本にマップ=ベルトコンベアを取り込んだ側と、ベルトコンベアを否定する批評原理主義者の笠井では、「批評−論評」の力学に関するとらえかたに温度差があるようにみえる。彼らは、このことをどう考えているのだろうか。


私がベスト10形式のブックガイド・ムックについて考えていることは、「“この本がすごい!”がすごい!……?」に記した。 → http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3344
一方、笠井は『探偵小説は「セカイ」と遭遇した」所収の「環境管理社会の小説的模型」(初出「小説トリッパー」2006年春季号)において、次のような説を唱えた。『容疑者Xの献身』を論ずる者たちが語る登場人物・石神の人物像は、それぞれ異なっており、見解は平行線をたどっている。それは、『容疑者Xの献身』が、ローレンス・レッシグ東浩紀的な意味でのアーキテクチャ環境管理型権力)に支配される環境管理社会の模型といえる小説であり、評者たちはそれぞれの読みにフィルタリング、ゾーニングされているからだ−−と。
http://longfish.cute.coocan.jp/pages/2006/061009_devotion/3.html#id000202
この解釈は興味深いものの、見落としがある。笠井は、『容疑者X』自体を環境管理社会の模型だと主張しているが、そうではない。私が、「“この本がすごい!”がすごい!……?」で指摘した通り、ベスト10形式のブックガイド・ムックには、環境管理型権力を擬態したような性格がある。笠井が『容疑者X』を環境管理社会の模型に見立てることが可能になったのは、同作品が『本格ミステリ・ベスト10』で1位になったがゆえだ。したがって、笠井の論考は作品論ではなく、『容疑者X』とベスト10システムが連結した、ある種のサイボーグ的な対象・領域をめぐって成立しているととらえるべきである。
簡単にいうと、ベスト10システムでは、評者がそれぞれ自己の解釈によって投票する。その段階でお互いの相談などないし、個々に与えられた読みの自由において投票する。この状態をフィルタリング、ゾーニングに喩えることも可能だろう。そして、ベスト10結果の決定後に、ランクイン作品をめぐって論争が起きたとしても、当初の解釈の延長線(=並行線)上で個々が立論するしかないのだから、結果として複数の論考がフィルタリング、ゾーニングされているかのようにみえるわけだ。
したがって、論理的な帰結として、笠井の「環境管理社会の小説的模型」批判は、実質的にはベスト10システム批判になっている。


「あなたの意見には反対だが、あなたが意見をいう権利は守られるべきだ−−とする側に自分は立つ」
これが民主主義というものだし、ベスト10という投票システムを運営する側ならば当然、そのような立場をとるべきだ。
しかし、ベルトコンベアの[仕分け]や、平行線をたどる複数の読みが存在する状態を批判する笠井の態度は、「あなたが意見をいう」その場所自体を批判している。
問題なのは、『容疑者Xの献身』が1位になった『2006本格ミステリ・ベスト10』の時点では、笠井潔がこのムックの編著者である探偵小説研究会の一員だったことだ。同ムックには探偵小説研究会のメンバーが投票するだけでなく、書評家や作家などに広く投票を呼びかけている。ゆえに、制作にあたっては毎回、投票者各氏に向けてアンケート回答をお願いする文章を研究会名義で発送している。つまり、笠井は、投票をお願いする側にいた一方で、ランキング決定後にその投票システム、投票行為自体を批判し始めたのだった。なにしろ、[仕分け]を依頼したのに、直後に[仕分ける]のは愚かだと言い放ったのだから。
笠井は自作の『オイディプス症候群』が『2003本格ミステリ・ベスト10』の1位になった時にはそのような批判は行わず、自分の気に入らない『容疑者X』が1位になった時になってから執拗なシステム批判を始めた。これは批評家として云々以前に、人としてどうなのか。
そもそも笠井は、今では探偵小説研究会を退会したけれど、『本格ミステリ・ベスト10』を創刊した際には中心人物だった(ムックとしては『'98本格ミステリ・ベスト10』がスタート。私が探偵小説研究会に加わり、同ムックの編著に関わり出したのは『2000本格ミステリ・ベスト10』からである)。
ベスト10創始者の笠井は、『容疑者X』が1位になった時点で、『本格ミステリ・ベスト10』=ベルトコンベアは機能停止したといい始めた。しかし、(千街晶之も指摘していることだが)、『オイディプス』1位の時点では機能に問題がなく、『容疑者X』が1位になったとたんに機能停止したと判断できる根拠を、笠井は論争以後も示していない(ベスト10の投票システム自体はこの間、大きな変更はない。このようなシステムに選ばれる作品は下らないのだというなら、『オイディプス症候群』も当然下らないと主張すべきだ)。
また、仮にベルトコンベアが不調に陥ったというならば、それを運営する側の一員としては、メンテナンスやリニューアルに動くべきだったはず。しかし、笠井はそのようなことはしなかったし、ただ“停止”をいいつのっただけだ。
(私も、『本格ミステリ・ベスト10』が万事順調で問題なしとは考えていない。だから、探偵小説研究会が、それを補うものとして長い批評を載せられる同人誌「CRITICA」を創刊することに賛成した。とはいえ、システムが万全でないからといって、恣意的に“停止”してしまえば、投票を呼びかける運営者として外部に対し身勝手すぎる。そのように判断し、私は定点観測としての意義を認める立場から『本格ミステリ・ベスト10』を継続する側に回ったのだった)
ベスト10システムが批判されるべきなら、それを創設し運営してきた笠井本人も自己批判しなければならない。ところが、笠井は論争後もその種の総括、反省、内省をみせていない。それどころか、こんな文章まで書きつけてしまう。

生活習慣病を放置し続け、動脈硬化でジャンルが突然死するという最悪の結果」を回避するため、筆者としては懸命に警鐘を鳴らしたつもりだが、第三の波の否定的な結末を阻止するには力不足だったと認めざるをえない。


『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』「はじめに」

どうやら、“逆境に立ち向かう孤独なヒーロー”の気分らしい。


笠井は論争開始後、「小説トリッパー」では「完全雇用社会の終焉と「自由」」(連載終了)、「ジャーロ」では「探偵小説論III」(その後、過去に書いた純文学論を『探偵小説論III 昭和の死』のタイトルで売り出したため、現在は「探偵小説論IV」に改題し継続中)という、いずれも重厚長大な評論を連載し始めた。それらにみるべき部分がまったくないとは、いわない。例えば、前者における「アーキテクチャとしての大審問官と制御権力」という観点などは興味深かった。
しかし、2本の長期連載はいずれも『容疑者X』論争への言及から書き出されていたというのに、笠井がすませておくべき自己批判や内省は抜きのまま論が進んだのだから、しらけてしまったのは否めない。ベスト10システム(=環境管理型権力への擬態)の運営側だった自分自身への内省・考察がないまま、「アーキテクチャとしての大審問官」などと論じられても、読まされるほうは説得力を感じない。
そして、『容疑者X』論争の総括としてまとめられた『探偵小説は「セカイ」に遭遇した』に、自己批判の記述がまったくなかったということは、笠井はもう内省しないと決めたとみなさざるをえない。そんな風に根本的なところを“華麗にスルー”した人物の文章に、もはや興味や関心など持てない。仕事上の必要が生じればべつだが、今後、私が笠井潔の批評や発言を積極的に読むことはないだろう。