ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

ジョン&ヨーコとセカイ系

(「クロ(ック)ニクル/グラフィティ」 No.2 2004/06/30 記)
ササキバラ・ゴウが「新現実 VOL.3」に発表した「おたくのロマンティシズムと転向――『視線化する私』の暴力の行方」のなかに、おや? と思う部分があった。おたく文化と憲法九条を関連づけたこの短い評論は、彼の著書『〈美少女〉の現代史 「萌え」とキャラクター』とも関連する内容で、やはりアニメを観察対象にして、60年代までの価値観が70年代以降に不明瞭化し、変化したと論じている。この時期の変化については、「大きな物語」の終焉、「理想の時代」の終焉など、いろいろ論じられてきたし、「新現実」の文章はそのササキバラ・ヴァージョンというわけ。
そこでササキバラは、60年代のアニメ・ヒーローが立ち向かったのは「戦争」であり、守るべきは「平和」で、そこに「正義」の根拠があったと記す。まだ「戦後」意識が色濃く残っていた時期であり、同時代にベトナム戦争が泥沼化していたなかでは、ヒーローものがそのように発想されるのは当然だった、と。しかし、70年代に日本では戦争のリアリティが希薄化し、ヒーローたちの「平和」、「正義」の根拠も薄れた。そう述べたうえでササキバラは、カッコ書きで彼の歴史観を簡略にまとめている。

ちなみに、その後「平和」の代わりに目立ってくることばが「愛」だ。それは、公共的な理念としてのことば(=平和)から、個人的な情念のことば(=愛)へと移行することであり、ヒーローという公共的存在のドラマは、単なる個人のドラマへと変わっていく。その結果七○〜八○年代に愛というキーワードは壮大な宇宙的博愛から身近なラブコメまで、どんどん肥大化していった。

この部分からは、まるで70年代に「平和」から「愛」への転換劇があったみたいに読める。例えば、漢字ばかりの左翼用語の演説や立て看板がカッコよくみえたらしい学生運動的なもので60年代を象徴させれば(いわゆる「68年革命」的な価値観)、70年代に「理念としてのことば」から「情念のことば」への変化が起きた風にみえるだろう。
しかし、60年代のユース・カルチャーを振り返った場合、「サマー・オブ・ラヴ」と呼ばれた67年には、サイケデリック革命、フラワームーヴメントの盛り上がりがあったのだ。そこでの価値観を、当時のスローガンで要約すれば「メイク・ラヴ、ノット・ウォー」ってことになる。そして、「ラヴ・アンド・ピース」が、ロックやフォークを好んだ当時の若者たちの合言葉だった。
つまり、「平和」→「愛」 と転換したのではなく、「平和」と「愛」を同列に結びつけて考えたり、地続きの等価ととらえたりする一種の移行期みたいなものが、「67年」的な価値観としてあったのだ。「公共的な理念としてのことば(=平和)」と「個人的な情念のことば(=愛)」が同居する「愛と平和」で、一つの単語になっていた。
だから、先に引用したササキバラ歴史観には、非常に違和感を覚える。あくまで日本のアニメから導き出した論考で、同時期の英米ロックを中心としたカルチャーを視野に入れていないのだから、しかたないのかもしれないけれど。
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60年代後半から70年代初期にかけて、「メイク・ラヴ、ノット・ウォー」「ラヴ・アンド・ピース」的な価値観の一番の宣伝マンだったのは、当然、ジョン&ヨーコだろう。ホテルのベッドに二人で寝そべり続けて「平和」を訴えた、あの悪名高い「ベッド・イン」イベント(69年)。同イベントは、「ベッド・イン」というあまりに個人的で情念的な行為を、世界平和というとてつもなく公共的な理念にぶつけた(ごっちゃにした)がゆえに、世間を苛立たせた――こんな風に記述してみると、アニメやコミックなどのセカイ系を連想しないだろうか。
笠井潔の記述を流用させてもらえば、セカイ系とは〔キミとボクの学園ライフを典型とする私的な小状況が、世界の破滅をめぐる人類的な大状況と、いかなる媒介性もなく直結しているタイプの物語〕(『本格ミステリこれがベストだ! 2004』)を指し、『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』などが代表例。このセカイ系は、ササキバラの言葉使いでいえば、「公共的な理念としてのことば(=平和)」から「個人的な情念のことば(=愛)」へと移行していった後に生じたパースペクティヴの乱れであるようにみえる。そんな、70〜80年代に進行した価値観の変化が、90年代半ばの『新世紀エヴァンゲリオン』以降、セカイ系と呼ばれるタイプのアニメやコミックの増加につながっている――これがセカイ系に関する一般論。
だから、セカイ系は近年の主題に思えるが、ジョン&ヨーコの「ベッド・イン」だってみようによってはセカイ系である。二人が反対した戦争は直接にはベトナム戦争だが、この戦争はアメリカ中心の資本主義圏VSソ連中心の共産主義圏という東西冷戦を背景に起きていた。で、冷戦は、全面核戦争の可能性を秘めていた。したがって、ジョン&ヨーコのイベントは、「ベッド・イン」という「私的な小状況」と「世界の破滅をめぐる人類的な大状況」を「いかなる媒介性もなく直結しているタイプの物語」=セカイ系だったといえるのだ。
なるほど、ジョン&ヨーコは特殊な立場にいた。スターである“ビートル”ジョンは、私的な行動がマスメディアによって公に伝えられてしまう存在だった。だから、どうせ「私」が「公」と直結させられてしまうなら、それを逆手にとってイベントにすることにしたのだろう(イベントを得意とした現代芸術家=ヨーコの発想が大きかったはず)。しかし、彼らの行為以前にも、若者層に「戦争しないで愛しあおう、セックスしよう」という発想はあった。ジョン&ヨーコは、それを拾い上げたといっていい(もっとも、男たちに戦争をやめさせるためにセックス・ストライキをしようとかいう発想は、ギリシャの大昔からあるんだけどね)。
9.11以後、アフガニスタンイラクで戦争を展開したアメリカが問題となっているこの時代に、日本でセカイ系表現が議論の対象となるのは、ベトナム戦争時代に「ベッド・イン」のごときセカイ系的な感覚が出てきた過去と並行関係が見出せなくもない。
それでは、「私」と「公」のレベルが混交した価値観や表現は、60年代末と現在とではどう違っているのか? セカイ系界隈の議論では、60年代のセカイ系的なものまで視野に入れて考察する必要がある。

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