ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

(「クロ(ック)ニクル/グラフィティ」 No.1 2004/06/28 記

  • はじめに
    • 今回から、0000|06のスペースで不定期連載する文章は、ROCK JETのサイト http://www.ne.jp/asahi/rock/jet/ に掲載している「クロ(ック)ニクル/レヴュー」の姉妹編です)(その後、JETサイトの連載原稿はすべてこちらのブログに転写した)

キャッチャー・イン・ザ・ライ

必要を感じて、久しぶりにJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読み返した。――というか、今回は野崎孝訳ではなく、今さらだが、村上春樹訳を初めて読んだのである。だから、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だ。
男子校を退学になった17歳の少年、ホールデン・コールフィールドが寮を引き払ったあと、ニューヨークあたりをうろうろする話。あてもなく移動する感覚はロード・ムーヴィー的だけど、よく考えると総距離数はたいしたことない。ストーリーなどはどうでもよくて、周囲のあれこれに反発してみせるホールデンの一人称の語り口、それで引っ張っていく小説である。一人称青春小説のクラシックだし、現在の西尾維新佐藤友哉などの一人称も『ライ』の末裔といっていいだろう。


記憶していた通り、『ライ』は「妹萌え」の小説だった。というか、このことを確認するために、読み返したといってもいい。ホールデンは、ジュニアスクール4年生でまだ小さい妹、フィービーのことを頻繁に思い浮かべる。それも、これから自分と同じ年頃の女の子とデートしようとしている時や、娼婦を呼んだ時の前後など、少なからず性的な気分を覚えているはずの合間にも、妹を想起するのだ。また、久しぶりにガールフレンドと会うその前に、妹へのおみやげのレコードを買ったりする。
もちろん、彼がまだ幼い妹に対し、性的関心を抱いているとは作中では書かれていない。しかし、それをほのめかしたみたいな部分は、ある。ホールデンは、かつての先生、ミスター・アントリーニのところに泊めてもらう。しかし、ホールデンは、眠っている自分のおでこをアントリーニが撫でていることに気づく。妻のいるアントリーニのこの行為に、同性愛的なものを嗅ぎつけ、ホールデンはその家から逃げ出す。アントリーニが本当に同性愛者だったかどうかは、作中では曖昧なままだ。しかし、ホールデンが、その種の性的なことに敏感だという印象は残る。
そして、ホールデンはこの先生の家に行く前に、もう寝ていた妹の部屋を訪ねていたのだ。兄はベッドに入ったままの妹としばらく会話し、彼女そうしてくれと求めるままに、おでこを触ってあげたのだった。

「すごく熱くなってると思わない?」と彼女は言った。
「いいや。熱があるみたいなの?」
「うん。熱を作ってるの。もう一回触ってみて」
(中略)
「あら、あなたの手をやけどさせたりはしないわ。そこまで行く前にちゃんと――しいいい!」

幼い妹のたわいもない遊戯に、兄がつきあっているだけの図、ではある。でも、これとよく似たアントリーニの行為が、作中で性的だと認定されていたのである。だから、この兄妹の触れ合いからも、当然セクシュアルな匂いが立ち上っていることになるわけ。
『ライ』は、退学になった兄が妹と再会するまでの物語と要約できる。続いて彼は、学校や家族から離れて新たな出発を図ろうとするのだが、再会した妹にもう一度だけ会っておこうと思ってしまったばかりに、これまでの圏域に引き止められてしまうというのが結末である。
さらに、妹みたいな幼い子どもたちが、もし崖から落ちて来るのなら、僕がキャッチャーになって受けとめてやりたい――それが、ホールデンの夢だったりする。
お話の骨格もタイトルも、妹第一にできている。徹頭徹尾、妹萌えなのだ。


よく知られているように、1980年にジョン・レノンを射殺したマイケル・チャップマンの上着のポケットには、愛読書である『ライ』のペーパーバックがあった。チャップマンは法廷で、ホールデンがキャッチャーになりたいと語った部分を朗読し、「ニューヨークタイムズ」に送った手記でも、この本を読めと薦めていた。この殺人犯もまた、ある種の妹萌えの人だったのだろう。
一方、ジョン・レノンは、ビートルズ離脱後のオリジナル・ソロ・アルバム第1作の1曲目を、「マザー!」と歌い出し、「母さん、行かないで!!」と絶叫した人。そのうえ女房は、いかにも地母神的なルックスで年上のオノ・ヨーコだった。
つまり、妹萌えのチャップマンが、マザコンのレノンを殺害したことになる。この妹VS母の図式は、なにかを象徴していたのだろうか……。