私が『ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ』執筆のラストスパートに入っていた昨年12月に、濱野智史著『前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)』が発行された。書名の大胆さゆえに、発売前から物議を醸していた本である。ゼロ年代以降の音楽動向を扱った『ソーシャル化する音楽』でも当然、AKB48を考察の範囲に含めていたから、濱野本に言及するかどうか迷った。結局、私の本の主旨から外れると考え、同書に触れることは見送ったが、言及する時のためのメモは多少用意していた。
今回、さやわか著『AKB商法とは何だったのか』発刊に伴う同氏がホストのWEBラジオ「AKB商法はいかがでしたか?」 http://www.taiyohgroup.jp/special/akb/special.html に出演させてもらったのを一つの機会と思ってアップするのは、その時のメモにやや加筆した走り書き。
『前田敦子はキリストを超えた』という断言を核にした濱野本は、それが批評性のある冗談、あるいは一種の思考実験だというのなら、興味深く楽しめる内容だと思う。だが、あくまで「ガチ」だ「マジ」だとする姿勢なので困惑してしまうのも事実。
一方、歴史をふり返れば、ジョン・レノンのキリスト発言や平岡正明著『山口百恵は菩薩である』など、ポップ・ミュージックを宗教とのアナロジーで語る例は、しばしばみられた。『前キリ』が話題になるなか、それらの事例を思い出した人たちもいたし、宗教への見立ては極端に珍しいことではない。
とはいえ、『前キリ』に代表される近年のアイドル−宗教論的言説と、かつてのポピュラー音楽−宗教論の語られかたには違いがあるように感じる。「ガチ」や「マジ」の態度だけでなく、過去の言説との差異も『前キリ』的議論へのとまどいにつながったのではないか。
なのでここでは、『前キリ』的議論との差異がわかりやすくなるように、音楽−宗教をめぐる過去の表現や議論のいくつかを素描しておく。
ジョン・レノンのキリスト発言
世界的人気だったイギリスの4人組バンド、ビートルズが『リボルバー』を発表した1966年のこと。メンバーのジョン・レノンが、雑誌「デイトブック」のインタヴューで「ぼくらはいまやキリストよりも有名だ」と発言し、多大な批判を浴びた。アメリカをはじめ各地でレコードの不買運動や焼却などが行われた。当時のビートルズは作詞や曲のアレンジ、スタジオ作業の工夫などで目覚ましく進歩しており、“アーティスト”化の最中だったが、世間的にはまだアイドルとみられていた時期である。
あまりの批判の大きさに、レノンは記者会見で釈明する(発言の引用は、和久井光司『ビートルズ原論 (河出文庫)』から)
ぼくはビートルズの方が神やキリストより優れていると言ったわけじゃないんだ。“ビートルズ”とぼくが言ったのは、ぼくにとってビートルズのことが話しやすいからだ。“テレビ”とか“映画”とか“自動車”とか、他のポピュラーなものを例に挙げてもよかった。
(略)
ぼくは神を信じているけど、それは一つのものでもなければ、空にいる老人でもない。みんなが神と呼んでいるものは、「ぼくたちみんなの中にある」と信じてる。ぼくは、キリスト、モハメッド、ブッダやその他の人たちが言ったことはすべて正しいと思う。
(略)
ぼくが読んだり、見たりしたところによると、キリスト教はもはや人々に伝わっていかずに、縮小していってる印象を受ける、ということなんだ。
レノンの釈明で面白いのは、キリストよりもポピュラーになったビートルズと置き換え可能なものとして、テレビ、映画というマスメディア、自動車という大量生産品を例にあげていることだ。ビートルズはマスメディアでその情報が流通し、レコードなど関連商品が大量生産されることで、キリストと比べたくなるほどの世界的アイドルになった。
一方、「AKB48」という工業製品的な記号を付与され大量生産されたメンバーが、多様なメディアと一体化することで、世界宗教と比較する論者まで出てくるような人気グループになった。このことも、レノンがみてとった「ビートルズ=メディア・大量生産 / キリスト」的な構図の延長線上にあるとみなせる。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』と『トミー』
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1950年代に誕生したロックンロールは、60年代には先進諸国における学生運動やベトナム戦争への反対運動といった時代の空気と同調し、“ロック=反体制”というようなジャンルのアイデンティティを獲得した。この過程で、ロックをキリスト教と比較する発想は、レノン以外にもみられた。その典型が、ティム・ライス作詞、アンドリュー・ロイド=ウェバー作曲によるロック・ミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター』である。
同作は、イエス・キリスト=ジーザス・クライストの最後の7日間を描いた物語。70年にまず2枚組レコードとして発表されてコンサート・ツアーが行われ、71年にブロードウェイで初演後は現在までたびたび上演されてきた。73年制作のノーマン・ジェイソン監督による映画版も知られている。
また、『ジーザス・クライスト=スーパースター』の影に隠れがちだが、同作初演の5ヵ月前には、同じくキリストの最後を扱ったロック・ミュージカル『ゴッドスペル』(『ウィキッド』のスティーヴン・シュワルツの作詞・作曲)が演じられており、こちらも73年に映画化された。2作のうち、『ジーザス・クライスト=スーパースター』のほうが存在感を増したのは、コミューン(共同体)の崩壊に力点を置いた内容であるためと考えられる。
旧来の宗教・政治状況の変革者として登場したキリストと彼に賛同する人々の関係を、反体制的ムードのロック・スターと彼に熱狂するファンたちのコミューンとの関係に重ねあわせる。そのような着想で作られたミュージカルである。
キリストは、多くの信奉者たちを集めつつあった。だが、彼の身近な弟子だったユダは、周囲に祭り上げられ、人々を扇動する立場になったキリストに疑問を抱く。そして、ユダは裏切り、キリストを体制側に売り渡すが、後に悔いて自殺する。他の弟子も結果的にキリストを否認し、救世主として人気を得ていたはずの男は、大衆が見物する前で処刑される。
今日の大規模ロック・フェスの先がけのひとつである69年開催のウッドストックに象徴されるように、当時のロックは多くの観客を動員し熱狂させるものとして認知されつつあった。これに対し、『ジーザス・クライスト=スーパースター』ではキリストの姿が、メディアの発達した社会で人々を扇動するロック・スターのイメージと重ねあわされ、表現されている。
また、反体制ムードのコミューン感覚を醸成するという60年代的なロックの姿は、70年代には崩壊し、商業音楽における1ジャンルとして落ち着いていく。結果的に『ジーザス・クライスト=スーパースター』は、そうしたロックのコミューン感覚の変質崩壊を先どりしたような内容になっていた。それが、はるか昔を題材にした物語でありながら、“現代の古典”になっていった一因だろう。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』というミュージカルが作られた時期には、ロック側からもよく似たテーマの作品が登場していた。イギリスのバンド、ザ・フーのストーリー性を持った2枚組アルバムでロック・オペラと称された『トミー』(69年)である。
それは、見えない、聞こえない、話せないの三重苦の青年トミーが、ピンボールで驚異的な才能を発揮したことから信奉者を集める物語だ。しかし、彼の開いたキャンプは、不満を持った信奉者たちの反乱によって崩壊し、ラストでトミー1人が精神的に解放されることになる。『トミー』に関しても75年に映画化され、93年にはブロードウェイでミュージカル化されている。『ジーザス・クライスト=スーパースター』と同じく『トミー』も、コミューン幻想的な60年代的ロック像の崩壊を予言したかのごとき要素を含んでいた。
そして、5年後の滅亡が予言された世界においてロック・スターがステージ上で自殺するという設定のデヴィッド・ボウイ『ジギー・スターダスト』(72年)と、ファシスト的にファンを熱狂させるロック・スターが妄想的な裁判にかけられるピンク・フロイド『ザ・ウォール』(79年。82年映画化)。70年代ロックにおけるこれらコンセプト・アルバムの2名作も、信奉者を集めた教祖的存在の地位転落という点で、『ジーザス・クライスト=スーパースター』や『トミー』のヴァリエーション的な内容を持っていた。
ジョン・レノンの人間宣言
『ジーザス・クライスト=スーパースター』は、キリストと彼の信奉者たちを既存の社会体制に反抗するものとして、60年代のロック流行と重ねあわせた。だが、長い歴史を持つキリスト教は、既存の社会体制を構成する代表的な要素であり、当時のロックにとって反抗の対象でもあった。
60年代にビートルズのライバルとされたローリング・ストーンズが、悪魔が語っている設定で“悪魔を憐れむ歌 Sympathy For The Devil”(68年)を歌うなど、反キリスト教的イメージを漂わせていたのも、反抗のポーズの一環だった。悪魔崇拝イメージを多用したブラック・サバス(70年デビュー)、92年にテレビの生放送中にローマ法王の写真を「真の敵だ」と破いて世界的非難を浴びたシネイド・オコナー、マリリン・マンソン『アンチ・クライスト・スーパースター』(96年)などなど、ギミックも本気もとりまぜて、アンチ・キリスト教的なアーティストは数多く現われてきた。
だから、既存の体制に反抗する側のリーダーが、信奉者たちを得て権威化したとたんに失墜するという『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『トミー』の初期キリスト教的物語の核心は、ストーンズ的な反キリスト教・反体制のノリをあらかじめ物語内に組み込んだものだったといえる。
有名になった自分のバンドをキリストと並べて批判されたジョン・レノンも、後にはキリスト的立場を否定する表現をしていた。彼はビートルズ解散後の本格的なソロのスタジオ第一作『ジョンの魂 John Lennon/Plastic Ono Band』の「God」で「〜なんて信じない I don’t believe in 〜」というフレーズを繰り返した。「〜」の部分には、聖書、占い、ヒトラー、キリスト、ケネディ、仏陀、マントラ、ヨガ、エルヴィス、ディラン、ビートルズなど、宗教や有名人の数々が登場する。そして、信仰、信奉の否定を繰り返した末に、自分とパートナーのヨーコだけを信じると歌う。
60年代カルチャーにおいてビートルズは教祖的立場になったが、レノンはそれを否定し一種の「人間宣言」を行ったのだった。それだけでなく、後の彼には音楽活動から遠ざかった「主夫」時代もあった。ロック雑誌などには、そうしたレノンの一連の姿勢に関し、スターという自身の立場に対する批評性を見出す論調もあった(スターの自殺を扱ったボウイ『ジギー・スターダスト』や、セックス・ピストルズ離脱後にジョニー・ロットンが芸名を捨て、本名ジョン・ライドンでPILを始動したことも、レノンと同様の批評性を持つととらえられていた)。
そのようにレノンを評価した音楽評論家の一人に、渋谷陽一がいた。80年にレノンは、ファンだという男に射殺された。死ぬことによってレノンは、不滅のスターというイメージを与えられ、結果的にスターという立場から永遠に逃れられなくなった。レノンが死亡した当時、渋谷は、ほとんどの人がスターになれない不幸の総和としてスーパースターが存在すると主張していた。そのスター・システム論に基づき、「スーパースターになっても殺されない法」と奇妙な題を持った原稿を発表した(『ジョン・レノン ALL THAT JOHN LENNON』81年所収)。そこに記されていたこと。
僕にいわせればスター・システムに勝利し、しかも生き延びる方法は、たったひとつしかない。それは自らスターという幻想を裏切ることである。
それが可能なら、スター・システムは崩れ去る。個々の不幸は個々の人間が引き受けなければならない。その当然の理屈を知らしめなければ、スター・システムは永遠に終わらないだろう。スーパースター達は、十二分にその報酬を受け取った。あとは殺されないために、スター・システム裏切りの法則を発見しなければならない。
もちろん、そんな法則は発見されなかったし、スター・システムが残ったから渋谷は後に大規模なロック・フェスを催せるようになったのだと茶々を入れることも可能だろう。ジョニー・ロットンやザ・クラッシュなどの70年代パンク世代は、前世代のスターたちのありかたを批判し、ロック界で王権転覆、民衆革命をしているかのごとくふるまった(ザ・ストラングラーズ『ノー・モア・ヒーローズ』などタイトルからして典型的)。だが、そうすることで彼ら自身もスターになっていった。ふり返れば渋谷のスター・システム論は、そうした転換期(“ミイラ取りがミイラ”期)に書かれていた。
平岡正明『山口百恵は菩薩である』
一方、日本で大衆音楽を宗教に喩えた例として有名なのが、平岡正明の評論『山口百恵は菩薩である』(一九七九年)である。当時、人気絶頂だったアイドル歌手(現在の感覚からすれば大人っぽい歌手に成長していたが「アイドル」と呼ばれていた)山口百恵を宗教の比喩で評価した同書は、話題になった。出版後に百恵が結婚引退を発表したことを受けて、平岡は続編『菩薩のリタイア』(八〇年)も刊行した。
http://www.tv-naruto.ne.jp/s-take/book/bhiraoka/bookhiraoka.htm
『山口百恵は菩薩である』では、父母の不倫、母子家庭の貧しさといった彼女の生い立ちの不幸を指摘したうえで次のように断言する。
六〇年代から七〇年代のはじめまで、菩薩という語を用いる者はいなかったが、そのような存在への熱望は左翼の革命思想のなかに背びれをみせていたのである。
天下の山口百恵、スーパースター山口百恵は人民の菩薩である。少女時代、沈む眼をし、やがて蛹になり、地にひそみ、蛹から孵化して菩薩になる地涌の蝶である。その過程で彼女は自己救済を行ったのである。
ファナティックで妄想的な評論である。ジョン・レノンは自分の立場を“労働者階級の英雄 Working Class Hero”という歌にしたが、平岡は同種の民衆革命的なイメージを宗教の比喩によってアイドル歌手に与えた。
山口百恵本人は、FM東京の番組で「菩薩といわれて、どういう気持ちですか」と問われ、「菩薩になれたらステキだと思います」と答えたという(『菩薩のリタイア』)。70年代には「外面如菩薩内面如夜叉」という古めかしいフレーズがまだ時代劇などでは使われていたし、女性を菩薩に喩えることは必ずしも極端なことではなかった。とはいえ、百恵の返答は立派だった(前田敦子が「キリストを超えられたらステキだと思います」と答えるなんてありえない……)。
しかし、山口百恵の“曼珠沙華”(七八年)という曲が「愛されるよりも愛していたい、歌手である前に人間でありたい、あなたの前で女でいたい、私はもう二〇歳」というナレーションから始まっていただけでなく、三人組女性アイドル、キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」とコンサートで叫んで引退を表明したのに対し、同じアイドルである百恵は「私だって普通の女の子よ」といったという。そして、彼女は八〇年に結婚引退する過程で自らの生い立ち、性、恋愛、芸能界での日々などについて語った半自伝的エッセイ『蒼い時』(八〇年)を発表したが、それは「普通の女の子」であることを証言した「人間宣言」とでもいえる内容だった。
宗教的偶像、あるいは民衆革命の英雄といったイメージを自らふりはらおうとした点、結婚引退と「人間宣言」の潔さを評価する声があった点では、ジョン・レノンの「人間宣言」、「主夫」生活の受けとめられかたに似たところがあった。
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濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』
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「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」
後にキンタローのモノマネでいっそう知られることになった前田敦子のこの利他的な発言をテコにして、濱野は『前田敦子はキリストを超えた』と主張する本を著した。そしてAKB48グループが、世界宗教たりうる可能性を論じた。
今回、ジョン・レノンのキリスト発言から『山口百恵は菩薩である』まで例示してきた音楽−宗教論におおむね共通していたのは、反体制、民衆革命的な気分である。だが、濱野は体制に反抗する発想というよりは、疲弊している現在の社会体制、システムが構造的に転換するため、いわば体制を救うためのヒントとして、AKBの宗教性に注目する。
ロック的な反体制気分は、商業音楽によって商業主義を批判するという矛盾を抱えていた。無秩序な観客入場によってなし崩しで無料になったウッドストックやワイト島のフェスに象徴されるように、過去のロックのコミューン幻想は、非商業的な空間として夢想されてもいた。これに対し、濱野はAKB総選挙をめぐり「カネで票が買えるからこそ、ファンが共同体のように団結できる」、「カネで買えるからこそ清い一票になる」、「「搾取」がコミューンを立ち上げる」と逆説的な意見を述べる。
『前キリ』的なパースペクティヴでは、「アンチ」の意味も変わる。マリリン・マンソン『アンチ・クライスト・スーパースター』など典型的だが、従来の「アンチ」は単純に反抗のポーズを示していた。これに対し、濱野は、AKBファン内部の特定メンバーに対する「アンチ」ファンの存在を、秋元康が「アンチが生れて、スターは育つ」「アンチのおかげで、自分を知った」と歌詞にしたことに注目する。アンチこそがスターやアイドルを育て、体制を育てるというとらえかただ。このように濱野のアイドル−宗教論は、旧来のロック/百恵−宗教論的な図式とは離れ、むしろ倒立した形で構成されている。
彼の逆説的議論は、ロック的な反体制気分の老化が進み空洞化した段階で、現われるのが必然だったものかもしれない。
とはいえ、今回のブログに書いてきた一連の音楽−宗教論も、昭和に人気があった演歌・浪曲歌手・三波春夫が言ったとされ、お笑いにモノマネされて独り歩きしたあの名文句の前では色あせるしかない。結局、金を払うものが一番偉いに決まっているという、身もふたもない芸能−宗教論。
「お客様は神様です」
かといって、歌手として客から投げ銭をもらう側の三波が、神様であるお客様に賽銭を渡したとは思えんが……。
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- さやわか WEBラジオ「AKB商法はいかがでしたか?」第7回 ゲスト:円堂都司昭 (アイドルの変遷が良くまとめられている/この本を読んでから自分の本を書きたかった/円堂さんとさやわかさんの問題意識は近い/ポップカルチャー批評と歴史を語ることの間で/絶対的ではない歴史を編むために/「抱きしめたい」と「I Want To Hold Your Hand」/音楽がAKBを軽視している......) http://www.taiyohgroup.jp/special/akb/special03_07.html