ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

本田透『萌える男』

萌える男 (ちくま新書)
80年代に勃興した恋愛資本主義(=恋愛の商品化)が行きづまった今、萌える男こそが社会を変革する! という啓蒙書(笑)。
振り返ると、80年代には本田のいうような恋愛資本主義へのいやみとして、金塚貞文(『オナニズムの仕掛け』ISBN:4787210041)や島田雅彦などのように、あえて自分をオナニストと宣言するパターンがあった。あるいは、松浦寿輝ISBN:4791755421IN:4480022856みたいに、性愛システムで自分を取り囲み自己完結した独身者にアーティスティックに注目してみせる論法もあった。モテだ非モテだという現在から、そこらへんを読み返してみたら、どう思うんだろう? 以前はモテない自分を理論武装するため、それらを必死に読んだ気もするが、今さら読み返したくはない。
本田の議論が、反復の多さや矛盾や強引さを抱えながらも面白いのは、恋愛資本主義への抵抗者として萌える男の独身者ぶりを賞賛する方向に進まず、逆に妹萌えを筆頭に家族萌えの傾向のみえる萌える男こそ、社会に家族の復権をうながす力になるというとんでもない展開。
本田は、宗教の代替として恋愛が発達し、それが商品化される過程で状況にノレない/よしとしない者が、理想を求め萌える男になったと主張する。話の出発点に宗教をおいたせいで、萌える男を絶賛する語り口も宗教的でファナティックになっていく。
だから、宗教的な言葉でとらえてみる。家族や世間のしがらみを受け入れて暮らす在家と、信仰にのみ専念できる空間に生きる出家。そう考えると、萌える男には、その身は在家でありながら意識は出家してるみたいなイメージがつきまとう(Amazonのレビューでも「出家」という言葉を持ち出した人がいた)。一方、本田は、萌える男の家族萌え=幻想が社会の現実へとフィードバックすることで、新しい家族が生まれるはずだと主張する。それって、在家と出家の中間みたいな感じで、コミューン的な擬似家族を作り出す新興宗教の発想に近い(このタイプの新興宗教は、実態がどうかにかかわらず、世間から“セックス宗教”と呼ばれやすい)。
昔、「フェミニズムは自分を救ってくれなかった」と語ったオウム信者の女性の記事があったことを思い出した。恋愛資本主義や従来の家族などに満たされず、フェミニズムに向かった点で、彼女は萌える男と同様だったといえる。彼女がオウムという集団に入ったのは、一種の擬似家族を求めてだったのではないか。−−80年代から90年代にかけてのことである。
なんつうか、恋愛とか家族の問題は、時代が変遷して論議のなかの用語がいくら交代しても、人の気持ちのうえでの選択肢はそう増えそうにない。『萌える男』の議論の展開に新奇さは覚えるものの、家族の復権という選択肢に落ち着くことについては、またか、と思わないでもない。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20040615