ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『ケータイ小説的。』/『文学の断層』/浜崎あゆみ

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

いろいろと刺激的な本である。速水健朗は、ケータイ小説で描かれる恋愛にデートDV的な傾向を見出す。そのうえで、ケータイ小説で恋人の死ぬ話が多いのは、デートDVにさらされているヒロインが無意識下で恋人の死を望んでいるからだ――と読み解く。この論理展開はスリリングだし、文芸評論としての醍醐味がある。

本書で速水は、浜崎あゆみケータイ小説に与えた影響を検証している。そして、あゆの詞とケータイ小説の3つの共通点をあげる。

1 回想的モノローグ
2 固有名詞の欠如
3 情景描写の欠如

一方、斎藤環の新刊文芸評論でも、ケータイ小説の走りであるYoshi『Deep Love』について述べた部分で、浜崎あゆみの名前を引きあいに出している。

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

斎藤は矢沢永吉浜崎あゆみといったヤンキー文化の流れでこの小説が書かれ、ヒロインの名も「アユ」とされていることに触れる。また、斎藤はいう。

『DL』には、繰り返し「時代に流される」という表現が出てくる。そう、あらゆる不幸は、弱い人間が時代に流された結果として生ずるのだ。少女時代のアユが悲惨な体験をして笑わなくなることも、心臓病の少年と不幸な別れをすることになるのも、アユがしまいにはAIDSを発症して死んでしまうことも、すべて拝金主義に陥った「時代」のせい、というわけだ。

斎藤は、この「唐突に時代を慨嘆しはじめる一人称視点のナレーション」をYoshiの文章について指摘している。だが、「きみとぼく」の関係が語られはするものの、それを取り巻く周囲の状況や社会は描かれず、唐突に「時代」、「未来」、「地球」という大状況に言及するパターンは、あゆの詞でもよくみられたもの(〈DUTY〉、〈evolution〉などが典型)。
http://www.rainbowcafe.jp/lyrics.html
「きみとぼく」と大状況の間の「中景」が脱落している点で、あゆの詞の一部がセカイ系的であることは、すでに誰かが指摘していたはずだ。
Duty


これに対し、Yoshiという男性が女子向けに戦略的に書いた『Deep Love』ではなく、それ以後の女性自身が書き始めたケータイ小説(『恋空』、『赤い糸』、『teddy bear』)とあゆの詞を比較した速水の『ケータイ小説的。』では、「情景」のない世界が指摘されはするが、そこではセカイ系的要素は観察されていない。
昨今相次いで刊行されたケータイ小説論において、Yoshiとそれ以後の女性によるケータイ小説の質の差、断絶はよくいわれることだが、前者にあったセカイ系的要素が後者では脱落しているという違いもあるのではないか。
速水が論じている通り、(女性による)ケータイ小説の受容層は、「地元つながり」を重視するヤンキー文化と親和性がある。「きみとぼく」の周りに仲間がいる「地元つながり」は、セカイ系において遠ざけられていた「中景」をむしろ充実させようとする方向ともいえる。Yoshiとその後のケータイ小説では、このような違いもあったのだった。

『昭和三十年代主義』、『ゼロ年代の想像力

昭和三十年代ブームをただの趣味ではなく有意義な主義に変えることは可能か――を問うた浅羽通明『昭和三十年代主義』では、『木更津キャッツアイ』を参照しつつ、地元つながり志向と昭和三十年代の親近性が述べられていた。

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

同書では、昭和三十年代ブームと、韓国ドラマやケータイ小説などのベタなドラマの流行は「懐かしさ」の点で同根だとも書かれていた。同書と速水の本をあわせ読むと、ケータイ小説ファンは昭和三十年代主義者か? と思ってしまう。
そして、もうじき改稿版が本になる宇野常寛ゼロ年代の想像力』は、SFマガジンの連載中、東浩紀批判やセカイ系批判を展開しつつ、『木更津キャッツアイ』など地方/郊外の共同性を描いた物語を主な批評対象の一つにしていた。
――こういう流れでみると、なぜ東浩紀が速水の『ケータイ小説的。』に強い関心を寄せるのか、わかる気がするのである。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000423.html
http://www.bk1.jp/product/03014735
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20080307
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20080314