ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

Jポップとケータイ小説

音楽誌が書かないjポップ批評: 50: Zardのアーリー90'sグラフィティ

音楽誌が書かないjポップ批評: 50: Zardのアーリー90'sグラフィティ

というわけで、原稿掲載誌↑が今日、届いた。そのなかで、町口哲生が「ZARDファンに捧げる90年代以降の女性文学」という記事を書いている。そこでは、「エクリチュール・フェミニン」をキーワードに、村山由佳綿矢りさ青山七恵山崎ナオコーラ島本理生桜庭一樹などが取り上げられている。で、ふと思ったのは、ケータイ小説には言及していないのだな、ということ。この記事は「文学」を切り口にしているため、そうしたのかもしれないが。


Yoshiの『Deep Love』シリーズは、ケータイ小説の初期のヒット作として知られている。その第一部は「アユの物語」と題されていた。浜崎あゆみの愛称をすぐ連想させる呼び名を、同作のヒロインは持たされていたわけだ。
Yoshi(これもXのYOSHIKIみたいな名前だ)の立場は、喩えてみれば少女たち自身が少女マンガを創作し始める前の時代に少女マンガを描いていた男性作家にあたるだろう。そして、実際に若い女性がケータイ小説を書き始めてからも、美嘉asin:4883810453、ゆきasin:4883810542など、Jポップの女性アーティストを思わせるペンネーム(←ケータイだから「ペン」は変だけど)をしばしば見かけた。
その点から想像されるのは、ケータイ小説はガールズJポップ的なリアリティ/ファンタジーの水準で読み書きされているのではないか、ということ。
曲を歌うために詞を読むというカラオケの現場を考えれば、“音読”される回数において浜崎あゆみ=あゆが一番のベストセラー作家だという時期は過去にあった。そして、彼女の詞に深く感情移入しないまでも、なんとなくこの感じわかるな――と気持ちがちょっとでも曲に同調する瞬間を経験した“読者”は、たくさんいたはず。
女性が女性の気持ちについて書いた文章に、女性が“ちょっと”同調する感覚において、ガールズJポップは「エクリチュール・フェミニン」な文学よりも、ケータイ小説の感覚に近いのではないか。(ケータイの画面上に映る本来の)ケータイ小説は、紙の本に印刷され定着される小説よりも、カラオケのモニター上で詞が現れては消えるJポップに似ているのだから。
そう考えれば、CDレンタルと書店の複合展開を行っているTSUTAYAでケータイ小説がよく売れている事実も理解しやすい。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20070720#p1
以前から素人っぽい小説を「カラオケ文学」と皮肉る蔑称はあったけれど、ケータイ小説は音楽抜きのJポップとして「カラオケ文学」を完成させたといえるのではないか。


ただ、ガールズJポップ〜ケータイ小説におけるリアリティ/ファンタジーの主流は、やはり、ヤンキー的感覚である(それは、「ダ・ヴィンチ」7月号の読者座談会でいわれていた「リアルっていうのは、私は知らないんだけど、となりのお姉さんはよく知ってる、みたいな」感覚といえる↓。
関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20070608#p1)
以上のように、ガールズJポップとケータイ小説の親近性を考えて話を転がしてみたわけだが、ふり返ればZARD坂井泉水の透明感は、現在のケータイ小説の主流であるヤンキー的汚れからはズレていた。それを踏まえると、町口の記事にケータイ小説が出てこないのは当然か、とも思った。

  • 17日夜の献立
    • 肉野菜炒め(豚、キャベツ、もやし、えりんぎ、玉ねぎ。サラダ油、にんにく、しょうが、XO醤、しょうゆ、こしょう、酒)
    • ニラ玉の味噌汁
    • めんたいこ
    • 玄米ごはん
    • 発泡酒、焼酎