ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

米光一成「大人にゃ見えない、ケータイ小説という少女たちの秘密基地」

「週刊ビジスタニュース」最新号に、上記の文章があった。米光の考察には、納得させられるところが多い。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3301
まず彼は、『Deep Love』、『恋空〜切ナイ恋物語 〜』などのケータイ小説の内容が、60〜80年代初めに刊行されていた少女向け雑誌「小説ジュニア」の「愛の告白体験手記」と同じ特徴を備えているという(レイプ、妊娠、中絶……みたいな)。
この指摘はその通りだと思う。実は僕も昔、その類の読者投稿をまとめた『さまよえる青春』『放課後の青春』(赤松光夫編)とかをエロ本だと受けとめて、コバルト文庫で読みふけっていたから。コバルト文庫というと、時にはライトノベルの源流の1つと言われることもある“新井素子以後”のイメージが強いだろうし、「小説ジュニア」の後継誌が「Cobalt」だったわけだが、それ以前はそんなものも色合いもあったのだ。
そして、米光は、「愛の告白体験手記」が手記+大人の説教で1つの作品になっていたのに対し、ケータイ小説は「大人の修正が介在しない」のが特異性だと論じる。これも、見方としてわかりやすいし、間違っていないだろう。
あるいは、書籍化にあたって大人の編集者がつくだろう、というツッコミが入るかもしれない。だが、ケータイ小説に関して、通常の小説出版のような「編集」が行われているとは思えない。そもそも、通常の「小説」に仕上げようとしていないのだから。


僕が、米光の考察にさらに付け加えるならば、「手記+大人の説教」と「大人の修正が介在しない」の間の段階として、「大人の介在がユルい・弱い」状態を想定することもできるのではないか――ということだ。
「小説ジュニア」の読者による「愛の体験告白手記」がまだ元気だった70年代後半は、雑誌の投稿文化がにぎやかだった時期でもある。そのうち「宝島」や「ポンプ」などには、性的な話題の投稿もチラホラあったが、「大人の説教」はなかった。編集者は、素人にどんな風に自由度を与えるかをポイントにしていたし、「大人の介在がユルい・弱い」状態を、あえて選んでいたのだ。
また、当時は投稿文化を背景に、プロか素人か曖昧な書き手が雑誌で元気だった。そんななかから「宝島」は、女子大生の赤裸々エッセイ『ANO ANO』を送り出し、「僕らの性的冒険」という投稿募集に応募してきた斎藤綾子に『愛より速く』asin:4101495130を書かせた。また、「ポンプ」の常連投稿者で同誌の象徴的存在だった岡崎京子は、後にエッチを女の子の平熱で描いたマンガを発表し、ある種の潮流を作ることになる。
一方、70年代後半の文学界では、女子高生の性体験を書いた『海を感じる時』asin:4101495130で、当時18歳だった中沢けい群像新人賞を受賞し、本がよく売れた。それからしばらくの間、見延典子『もう頬づえはつかない』など、若い女性作家による性的小説の出版は、ある種のブームになった。
さらにもう一方では、80年に山口百恵の自伝的『蒼い時』がベストセラーになっている。今となってはどうってことない内容だが、トップアイドルが生理痛や初体験の話を書くなんて、と当時は驚かれたものだ。
若い女性の性的な言葉をめぐる以上のような70年代後半の配置は、どこかゼロ年代の分布図と似ていないか。ネット投稿によるケータイ小説が存在し、金原ひとみ綿矢りさなどの文学系があり、飯島愛『PLATONIC SEX』asin:4094023968というタレント本もあったゼロ年代……。
(70年代後半の配置の件は、米光も執筆していた斎藤美奈子編『L文学完全読本』asin:4838714157が示していた見取り図とも絡む話題だ)


ちなみに、『ANO ANO』時代の「宝島」を編集していた村松恒平と、「ポンプ」編集長だった橘川幸夫は昨年、『微力の力』asin:4757737564という対談集を出した。同書において、かつて「大人の介在がユルい・弱い」編集を推進した彼らが、ゼロ年代の現状において編集の不要ではなく逆に必要を説いている点が自分には興味深かった、と付け加えておく。


『恋空』がとり上げられている↓

恋愛小説ふいんき語り

恋愛小説ふいんき語り

(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20061128#p1


今日は頼まれて、親の確定申告を手伝った。そのうえ、保険の変更に関する相談に乗ることを約束させられた。苦手なんだけどな、そういうややこしい数字の話は。しかも、自分自身の確定申告がまだ済んでいないという……。