ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

映画&小説『クリアネス』

(映画版の趣向に触れています)

クリアネス―限りなく透明な恋の物語

クリアネス―限りなく透明な恋の物語

第1回日本ケータイ小説大賞を受賞した十和『クリアネス 限りなく透明な恋の物語』は、恋人がいるのに自宅マンションで体を売る女子大生・さくらと、出張ホストの金髪少年・レオが出逢う話だ。このストーリーのポイントは、さくらの自室からレオの仕事する出張ホストの事務所が見えるという、建物の位置関係にある。
原作を読むと、ケータイがメールや会話、そして受信拒否というように、ごく普通に使用される一方、さくらは恋人やレオ、友人、客などをかなり無造作に自室に入れている。自分が売春している場所なのだから、痕跡を発見されたら大変だろうし、恋人など部屋に入れなければいいのに。
また、自室のさくらと事務所のレオは、道路を挟んで手を振ったり、大声で話しかけたりする。そして、さくらはレオの部屋に行った時、彼が小学校の卒業文集の“将来の夢”と題されたコーナーに、

ぼくは、透明人間になりたい

と自筆で書き加えていたのを盗み見る。
なんだかんだあって、レオはさくらの恋人に大怪我を負わせ、2人で逃げ回ることになる。だが、ついに自分から申し出ることを決めたレオは、また逢いに来ると約束した置き手紙をさくらに残し去っていく……。
紙の本になった小説としては、変な文章も少なくないし、展開は行き当たりばったりだし、まあ、褒められない。でも、ケータイで読むというシチュエーションを想定すれば、ああ、この話に癒される人はいるだろうな、とは思う。
ケータイという他人との一定距離を保証する媒体/一定距離に制限する媒体を用いて、読者本人は安全圏にいる。その状態のまま、無造作に自室に入ってこられたり、道路の向こうから大声で呼ばれたり、置き手紙を残されたり(映画版では少年院からの手紙)――などなど、相手から物理的&感情的な距離をつめられるシチュエーションを想像するのは、とても甘美なことだろう。相手が接近してくる感覚こそ甘美の原因であり、その意味では、よくできた話なのだ。
これに対し映画版は、原作の大筋を継承しつつ、いくつか改変している。さくらがある日、自室で客の相手をしていると、いきなりレオが乱入してきて「つつもたせ」の真似を始める。原作ではこれが2人の初接触になる。しかし映画では、さくらに嫌な客がしつこく迫っているのを追い出すために、レオがやって来る。
また、原作のさくらは、恋人とつきあいつつレオのことも想い始めた段階で、クラブのDJともセフレになってしまう。だが映画では、レオの事務所のオーナーから彼とつきあわないよう脅されたさくらが、自暴自棄になってDJと寝るという順序にされている。
つまり、原作よりも映画のほうが、登場人物の行動に同情すべき点、共感しやすそうな意味づけを増やしているわけ。
とはいえ、原作では登場人物の言動が行き当たりばったりであるがゆえに、かえって変なリアリティが生じていた面もあった。映画版を見ると逆に、人間はそれほどもっともらしい“因果関係”を生きていないよ、と思ったりもするのだ。
特に、大怪我をして首にギプスをはめている恋人が平気で振り向いたり、転んだ後、包帯グルグル巻きの足に力を入れて立ち上がったりするシーンを見ると、この映画はなんなんだ? と思う。これでOKを出す監督の神経がわからない。お笑いコントじゃないんだから、ちゃんと痛さを演出しなさいよ。他人の目を気にして逃げているはずのレオが、染め直すわけでもなく金髪のままウロウロしてるのだって間抜けでしょ。“因果関係”を与えたくせに、演出が徹底していないから、中途半端な作為が目立ってしまう。
こういう映画を見せられると、原作の行き当たりばったりなノリは“素”と思える分、妙にリアルに感じられるのだ。レオの生い立ちについて、母親が風俗嬢で、彼自身が風俗の店で育てられたという種明かしは、演歌の花街もののごとく(三善英史とか)、古くからあるパターンなので、そちらにリアルはない。むしろ、さくらのフワフワしたとりとめのない生きかたのほうに、リアルさを実感できない様子・気分の“リアル”がある。この構造は、『NANA』asin:4088567749でナナがフィクショナルなのに対し、ハチがリアルであるバランスに近い。


映画版『クリアネス』には1点だけ、原作にはなかったよい工夫がある。原作では、さくらが自室から道路越しにレオを見ているうち、気になる存在になっていく。映画版では、これにプラスされた要素がある。レオは出張ホストの合間に、ケータイで誰かにメールしている。その姿をさくらが見つめているのが、出発点なのである。
後半になって、レオが誰にメールしていたか、明かされる。彼は、「透明人間」である自分宛てにメールしていたのだ。そんな彼に対しさくらは、今後は自分宛てにメールして欲しいと思う。このような“ケータイ”のドラマチック化は、“ケータイ”小説として発表された原作にあった欲望の本質を突いていると思う。


そして、自分自身にメールを送っていたレオが、さくらと手をつなぐようになる『クリアネス』の話の骨格は、もう1人の自分に手紙を出していた堀北真希が恋人との関係を選ぶ『東京少年』と同型なのだ。
色と欲のヤンキー的想像力から出発したケータイ小説的世界。大人にも受け入れられる青春ものとしてあるジュブナイル的世界。そんな風に『クリアネス』と『東京少年』では、所属する想像力の圏域がズレているにも関わらず、小道具としてのパーソナル・メディアの使いかたは同水準になってしまう。
加えて、『東京少女』におけるケータイの描かれかたが、『ほしのこえ』とも通じていたことを思い出せば、ヤンキー、ジュブナイル、オタクの各表現領域で、パーソナル・メディアの扱われかたに大差はないのではないかという気もしてくる。というか、パーソナル・メディアを使ったドラマのパターン、あるいはジャンルの定型化、コード化が横断的に進んでいるのだろう。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20071216#p1