(趣向に触れています)
しばらく前に試写会で見た映画3本(『東京少年』、『東京少女』、『クリアネス』)が、もう次々に公開されていたのだった。
『東京少年』と『東京少女』は、もともと対になるよう制作された映画であり、それぞれ堀北真希、夏帆を主演にしたアイドル青春映画的な色彩でも共通している。一方、『クリアネス』は、援助交際とホストといういかにもケータイ小説な原作の映画化で、アイドル映画の清純イメージとは遠い。しかし、『東京少年』が手紙、『東京少女』がケータイを重要な小道具にしていたのと同様に、『クリアネス』でもケータイが目立つ小道具になっている。そこらへんを比較したいが、今日はまず、平野俊一監督『東京少年』について(以下、前記3本の映画に関する雑記は、試写会直後にメモしていた感想にちょびっと手を入れたもの)。
“みなと”には、同じ歳の男の子であること以外なにも知らない“ナイト”という文通相手がいた。だが、彼女に恋人が出来たことから奇妙な三角関係が生じる。実は“みなと”は二重人格であり、“ナイト”は彼女の男性人格だったのだ。
一応、そのようなどんでん返しが用意されてはいる。映画の構成としては、前半に出てきた話を、後半はほかの人物の視点から語り直す形で真相が明かされる。そうすることで前半とは違う世界が浮かび上がる――という狙いだったのだろうが……。
観客からすると後半の展開は、ちょっとアングルを変えて同じ話を反復しているだけにしか思われず、冗漫に感じられる。だって、宣伝の段階から堀北真希が「二重人格の少女」を演じることは明かされていたわけだし、事前告知以上の意外性などべつにないのだから。
叙述トリック的などんでん返しを用いてある種の哀感を際立たせること、視点を変えて同じ話を反復することで意外性を演出すること。――そうした『東京少年』の狙いはわかるが、成功しているとはいえない。同作の煮え切らなさを見て、『アヒルと鴨のコインロッカー』の映画化がいかに成功していたか、思い出した。同作では、視点を変えた語り直しが効果を上げていた。
一方、『東京少年』でよかった工夫は、郵便ポストの位置。
“みなと”は“ナイト”宛てに書いた手紙を、いつも丘の上のポストに投函する。そのポストのすぐ向こう側に街並みを見下ろせる構図になっており、ちょうど線路が横切っていて時々電車が通過するのだ。街は閉じられた彼女の内面を、線路は外部への願望を象徴しているわけで、それは彼女の内向きの感情と外向きの感情の結節点にあるポスト/“ナイト”の意味を、構図でよく表現するものともなっていた。(つづく。たぶん)