ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

自分探し、逃走、蒸発

速水健朗『自分探しが止まらない』

自分探しが止まらない (SB新書)
ミステリには、真相探しと自分探しの相乗効果を狙った作品がある。事件に巻き込まれた記憶喪失の人間がいて、彼が真相を発見すると同時に、本当の自分も知ることになる――というストーリーに典型的であるような。だから、ミステリ評論も行っている僕としては、“自分探し”や“探すこと”に以前から関心を持ってきた。
その点、速水健朗『自分探しが止まらない』は、そうそう、こういう本を読みたかったんだ――という内容である。ウッドストック開催の60年代までさかのぼり、自分探しの歴史をよく整理してくれている。『あいのり』が「恋愛観察バラエティ」ではなく「“自分探し”観察バラエティ」――という指摘だとか、ラーメン屋の作務衣に自分探しのノリを見るくだりなど、とても面白い。

浅田彰『逃走論』と上野千鶴子『〈私〉探しゲーム』

速水はこの本の発売直前、自身のブログに中身の見出し一覧を掲示していた。
http://www.hayamiz.jp/
これを見た段階で、ふと、思ったことがある。同書では、イラクで人質になった高遠菜穂子香田証生などを取り上げている。彼らはゼロ年代に、イラクの砂漠の戦場へ、自分を探しに行ったわけだ。でも、ふり返ってみると、80年代には砂漠は探しに行くところではなく、逃げていくところとされていなかったか?
逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)
80年代にニューアカデミズムのスターだった浅田彰は、『逃走論』において「一定方向のコースを息せききって走り続けるパラノ型の資本主義的人間類型」を批判し、「スキゾ的逃走」を称揚した。そして、彼の主著『構造と力』の最終章では、砂漠の流動性や自由が賞賛され、砂漠こそ最高の逃走場所であるかのごときイメージが作られていた。
また、「一定方向のコースを息せききって走り続けるパラノ型」を批判するニューアカの論調では、ミステリとストリップが馬鹿にされていた。それぞれ、真相、性器というゴールに向かって、「一定方向のコース」を走るジャンルだから。このため、当然、ニューアカ的思考は、“なにかを探す”という「一定方向」を求める身ぶり自体に否定的だった。
「私」探しゲーム―欲望私民社会論
しかし、『自分探しが止まらない』でも言及されている通り、上野千鶴子が登場して『〈私〉探しゲーム』という話題をふったのだ。上野は、ニューアカ流行以後、いろんな学者が論壇に登場した流れの1人だったが、今思えば、浅田→上野で「逃げる」→「探す」の転換があった気もする。
日本の会社社会がまだ堅固だった時代には、「一定方向のコース」(というある種の拘束)から逸脱して「逃げる」ことに意味があっただろう。でも、男がそうであっても女は「一定方向のコース」にすら乗っていないというのがフェミニズムの立場だったし、その代表である上野が「探す」というテーマに愛憎半ばする微妙な態度をとったのも当然だった。
その後、日本の会社社会はグズグズになり、みんな「逃げる」どころではなく、「探す」ほうに気をとられることになった。これに伴い、砂漠も「逃げる」場所ではなく「探す」場所に変化した、ってわけだ。

香山リカ『〈じぶん〉を愛するということ』

以上のように、あらかじめ「探す」−「逃げる」を思い浮かべたうえで『自分探しが止まらない』を読み始めてみると、次の一節に行き当たった。岩本悠『流学日記』という、海外で自分探しした人の本について、速水が言及した部分である。

「シアワセに流され」ることを恐れ「逃げ」ることを選択した著者は、手始めに台湾の地震被災地での支援活動に参加する。その活動の中に著者が求めたものは、日本において大学生生活では体験できない「リアルな体験」だったという。

ここで速水は、当事者において自分探しと現実逃避が一体化している様子を指摘している(ここで指摘されている「逃げ」は、浅田彰的な威勢のいい「逃走」ではない)。つまり、自分探しにおいては、逃げる自分と探す自分がいるのだ。
<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書)
このことは、『自分探しが止まらない』にも登場する香山リカ『〈じぶん〉を愛するということ 私探しと自己愛』を視野に入れると理解しやすい。香山の本では精神科医らしく、私探しブームの過程で、ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』などの多重人格ブームが起きたことを考察していた。自分探しがなぜ多重人格への興味に結びつくかといえば、そもそも本人のなかで逃げる自分と探す自分が乖離しているからだろう。
私探し、自分探しという概念が一般化したのは80年代後半以降のこと。以後の時期には、嫌なことは抑圧して無意識に押し込める――という垂直方向の心理モデルよりも、嫌なことは切り離して別の人格にしてしまう――という水平方向の心理モデルのほうが優勢になった感がある。
それを踏まえると、マラソン選手・有森裕子アトランタ五輪で銅メダルをとった際の「自分をほめてあげたい」というセリフが、反響を呼んだ意味がわかる。あれは、逃げる自分と探す自分が和解した瞬間であり、彼女は自分探しの“上がり”のイメージを提示してくれたのだ。

安部公房砂の女』『燃えつきた地図』

砂の女 (新潮文庫)燃えつきた地図 (新潮文庫)
さらに、「逃げる」と「探す」で思い出すのは、安部公房が60年代に書いた『砂の女』、『燃えつきた地図』という2作の小説である。前者は、昆虫採集に出かけた男が砂穴にある家に閉じ込められて逃げられなくなり、やがて失踪宣告される話だ。一方、後者は、失踪した男の手がかりを探す興信所員が我を見失い、自分も失踪する側に回る話であり、2作は対になっていた。
動機らしい動機もなく、それまでの社会生活からいなくなってしまう人を「蒸発」と呼んで、60年代には流行語になった。安部の不条理な小説2作は、そうした同時代の世相を背景に書かれていた。従来の生活から逸脱することに、まだ「自分探し」というポジティヴな意味づけが流通していなかった60年代において、彼らは「蒸発」と呼ばれるしかなかったのだ。
こうして、蒸発、逃走論、自分探し――という時代の推移を考えると、えらく変わったものである。とはいえ、変わらないこともあるだろう。『砂の女』冒頭に安倍公房は、「罰がなければ、逃げるたのしみもない」という一文を掲げていた。しかし、こうもいえるはずだ。「探すたのしみがなければ、逃げるたのしみもない」。このことは、蒸発、逃走論、自分探し――で一貫していると思うのだ。