ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

見城徹『編集者という病い』

編集者という病い

編集者という病い

70年代後半から小説誌「野性時代」の編集にかかわり、中上健次村上龍、つかこうへい、三田誠広高橋三千綱などの作家たちと伴走して、文学がサブカルチャー化していく、まさにその時代を生きた見城徹の回顧本。彼はその延長線上で、80年代以降にはミュージシャンたちによく文章を書かせてもいた(← 僕は、その頃の「月刊カドカワ」を、国内ロック雑誌以上によく読んでいた。大槻ケンヂ特集とかね)。そして見城は、角川書店を退社した後、幻冬舎を立ち上げてベストセラーを連発したわけである。
そんな人の本だから、本当は、もっと面白くなるはずなのだ。けれど、尾崎豊を筆頭に、あのミュージシャンと呑んだ、この作家とも呑んだというような、人間関係の自慢話ばかり並んでいる。しかも、話の重複が多い。既発表の文章や発言を集めただけの作りなので、内容に奥行きがない。
最近、文庫化された大塚英志の『サブカルチャー文学論asin:4022643900、「幻冬舎文学論(あるいは天に唾する小説のあったはずの可能性)」という章がある。この章で大塚は、見城徹と作家たちの関係性の「だらしなさ」を揶揄、批判しつつ、サブカルチャー化した文学の象徴的存在、村上龍を論評していた。

ここではしかし、とりあえずは村上龍幻冬舎的領域の重なりあう部分の手口を問題とする。それは欲望に対するマーケティング技術であり、幻冬舎の出版物があの著者のあのネタで今、やったら明らかに売れるとわかりきっている書物をヒットさせることと、例えば村上龍の作品がしばしば援助交際酒鬼薔薇聖斗や引きこもりといった旬の素材からなることの意味するものだ。

一方、出版ビジネスのノウハウ本、サクセスの秘訣本の一種と見なせる『編集者という病い』では、情熱や人づきあいについては飽きるほど書かれている。しかし、大塚の語るような「欲望に対するマーケティング技術」のディテールにまで踏み込んだ部分はない。僕としては、大塚の評論家的批判に拮抗するくらいの、見城徹の出版ビジネスマンとしての言い分や自負を、もっと具体的な内容で読んでみたかったのだが。


幻冬舎は文庫市場に参入する際、一挙に62冊を刊行した。これは文庫創刊時の刊行冊数としては異例の多さだった。――ここまでは、『編集者という病い』でも触れられている。
だが、この会社が当時、某製紙メーカーにわざわざ「幻冬舎文庫」用の紙を開発させたことまでは、書かれていない。僕は当時、紙関係の業界雑誌記者として、たまたま、この件に関し取材したから知っていたのだ。
なので、『編集者という病い』のあとがきで、見城徹がいろいろな人への謝辞を記すなか、

紙のことが全くわからない僕たちに、「中庄」の大塚取締役(故人)は、会社に泊まり込みで一緒に作業をしてくれた。

(引用者注:「中庄」は、紙の卸商)

などと紙関連で言及しているのを見ると、いろいろ思うことはある。


出版を具体的なビジネスとして成り立たせるためには、ただ作家たちとつきあうだけでは足りない。企画編集、印刷製本、流通などの各段階で、あれこれディテールの積み重ねが必要となる。当たり前の話だが。
上記引用部分などを読むと、その種のディテール(ここでは、資材としての紙の重要さに対する認識)が、もう少しで透けて見えてきそうである。
ところが、『編集者という病い』に関しては、この本の編集サイドが見城徹の既存の“玉稿”を集めるだけでよしとして、彼の周辺にあったはずのディテールを掘り起こそうとしなかった。それが、不満。

  • 26日夜の献立
    • ヒレのソテー(ハーブ塩、こしょう、小麦粉。オリーブオイル、粗糖、白ワイン、レモン汁)
    • わかさぎと玉ねぎのマリネ
    • 水菜(ポン酢、白ごまペースト)
    • もずくと長ネギの味噌汁