ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

今さらだが「ニッポンの小説はどこへ行くのか」

(小説系雑誌つまみ食い 34――「文學界」4月号)

文学界 2008年 04月号 [雑誌]
なにを今さらだが、図書館で見かけたので「文學界」4月号を借りてきた。例の11人大座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」(岡田利規川上未映子車谷長吉島田雅彦諏訪哲史田中弥生筒井康隆中原昌也古井由吉山崎ナオコーラ高橋源一郎)を読んだ。気になったのは、田中弥生の次の発言(と島田雅彦のリアクション)だ。

田中 今は、広告的な文章が氾濫していて、テレビはもちろんですが、ポスターや中吊り広告に囲まれて生活している。そういうところで主流となっている言葉に違和感を覚えた時に、昔の本を通してしかそれを確認できないのは、いびつだと思いますし、それを現在形で考える場として、文芸誌的なものがあるんじゃないかと思うんです。たとえば自動車市場の中に、公道でのマナーに一見反する、F1があるように。
島田 そういうと、カッコいいね。フィクションのFか。

ここでは、「文芸誌的なもの」が言葉の前衛であるべきだとする考えかたが、「F1」の喩えで語られている。
けれど、僕が「F1」という言葉で思い出したのは、千野帽子『文學少女の友』asin:4791763211。同書には、「生活? そんなものはF1層に任せておけ。」という見出しがあった(ヴィリエ・ド・リラダンの言葉「生活? そんなものは召使に任せておけ」のもじり)。千野が引き合いに出した「F1層」とは、テレビ視聴率の集計区分において20〜34歳の女性を指す、一種のマーケティング用語。「F1層」という消費行動の中核を表す言葉は、車における前衛である「F1」とは反対に、大衆性を象徴している。
だから、ライトノベルケータイ小説などの大衆性におびやかされる純文学――という図式のなかで企画された「ニッポンの小説はどこへ行くのか」において、せっかく「F1」という言葉が持ち出されたのだから、「カッコいいね。フィクションのFか」以上の、もう少し気のきいたリアクションが欲しかった。
「F1層ではなくF1を目指せってことですね?」「でもね、いくらF1を気どったって、F1層にウケる人たちの収入にはかなわないんですよ」――とか、せめてその程度の展開は欲しかった。
また、「山崎ナオコーラ」に至っては、コカコーラやペプシの広告に触れていなければ考えつかなかったペンネームだろうともいえるし、そこらへんにまで話を広げなかったのはもったいない。まぁ、出席者が多すぎて、その種の脱線まで原稿に組み込む余裕がなかったのはわかるけれど……。


それにしても、広告の言葉を批判する文脈で、「自動車」を持ち出すのはいかがなものか。「自動車」はこれまで広告業界の花形としてさんざん君臨してきたわけだし、「自動車」を喩えに持ち出せば話が通じやすくなるだろうという感覚がすでに、広告的な言語感覚に侵されていないか――なーんて茶々も入れたくなる。

消費にかかわる固有名詞が「消費にかかわる固有名詞」として機能することの不自由さとは、こうして「文学」の言葉が「広告」の言葉のように振舞うことを強いられる不自由さにほかならない。それらの言葉が蓄積されていくにしたがって、「現代文学」は広告の文章意識にしたがうことを強いられていくのである。

上↑で引用したのは田中弥生の文章ではない。田中和生『あの戦場を越えて 日本現代文学論』asin:4062128691の一節である。
また、「小説トリッパー」春季号asin:B0014RHGN2の〔特集「ゼロ年代」の作家たち〕には作家6人(川上未映子辻村深月、前田司郎、万城目学本谷有希子米澤穂信)のインタヴューが掲載されており、田中和生田中弥生の2人が聞き役を分担していた。このことに関し、「エクス・ポ」VOL.3の「プロフェッショナル読者論」(豊崎由美×仲俣暁生×佐々木敦)では、どっちがどっちかわからないとダブル田中を揶揄していたっけ。
なるほど、「文學界」の弥生発言と和生の『あの戦場を越えて』を並べると、基本的な考えかた自体が近いようだし、2人が似通ってみえるのは当然かも、と思った。


で、こうした広告議論がある一方で、「広告批評」が来年休刊する……。