ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『王様と私』

マッチョな思考に凝り固まった男の子どもを教えることになった女性が、子どもになつかれるだけでなく、最初は衝突した男とも理解しあうようになり、やがて考えかたを変えた彼と魅かれあう……。
王様と私』(映画版1956年)と『サウンド・オブ・ミュージック』(映画版1965年)は、そんな大枠が共通している。それぞれの組みあわせは、前者がシャムの王様と英国の未亡人、後者が大佐と元修道女見習いであり、いずれもヒロインは家庭教師となったために、その家の奥へと入りこんでいく。

しかし、2作の結末には大きな違いがある。
(※以下で結末に触れる)




サウンド・オブ・ミュージック』では、ヒロインが大佐と結婚し、家庭内の男権主義は解除されて一家に平和が訪れる。ところが、ナチスによる故国併合という暗雲が一家を取り巻き、彼らは山を登って亡命する道を選ばざるをえなくなる。
一方、『王様と私』の場合、野蛮というレッテルを貼られたシャムが英国から攻撃されるかもしれないという危機を、ヒロインの協力を得て王様は切り抜ける。二人の距離は近づき、一緒に踊ったりもする。だが、国家の近代化を目指した王様自らが、彼女の英国流教育を導入したとはいえ、2人の価値観にはなお開きがある。たくさんの夫人を娶り、多数の子どもを産ませるのが当たり前だった王様と、一夫一婦制のなかで結婚し夫を亡くしたヒロインとでは、男女それぞれの権利、恋愛や結婚に対する考えかたが違いすぎる。
王様は自分の身分に対する自信から、ヒロインはアジアの後進国よりも近代化されているという自負から、互いに上から目線になりがちである。それぞれがそのように育たざるをえなかったことを、ヒロインのほうは最後には理解し受け入れたようだが、恋愛するまでには至らない。彼女は、一度は返した指環を病床の王様から再び受けとるが、彼はそれを渡した直後に死んでしまう。ヒロインが王様の亡骸にすがりつくすぐ横では、王の座を継承する彼の息子が、今後は王に対してひざまずかなくてよいと周囲に宣言している。王様とヒロインの関係が、より近代化された新王を誕生させる礎になったと示して、物語は終る。


王様と私』のこの結末には、『美女と野獣』において、野獣が本来の美形の王子へと姿が戻る結末を連想させるところがある。『美女と野獣』では野獣と王子は同一の存在だったのに比べ、『王様と私』は旧弊な部分を残す王様から近代化された新王への交代で、野蛮さの減衰が描かれる。ヒロインの賢さと愛が野蛮さを鎮める力になる点は、二つの物語で共通している。
王様と私』の場合、子連れのヒロインは当初、住むための家を用意される契約だった。だが、王様は約束を破り、彼女を強引に宮殿に住まわせる。これは、恐ろしい野獣の命令によって城に住まざるをえなくなった『美女と野獣』のベルの立場と似ている。ヴィルヌーヴ夫人版のオリジナル『美女と野獣』では、賢いベルと愚かな野獣が対比されていた。その意味でもこれら2作は、物語の中心となる2人の配置が似ている。


また、『王様と私』で面白いのは、『アンクル・トムの小屋』がアジア風にアレンジされた劇中劇として挿入されること。
映画には、いかにもアメリカ人が考えたフェイクのアジア音楽が流れるが、今思えば、後の時代に書かれた坂本龍一戦場のメリークリスマス』サントラ(物語はジャワ島が舞台)は、この種のフェイク感覚を欧米市場向けにあえて継承してみせたような気がする。『戦メリ』もまた、アジアの野蛮と西洋の近代が衝突する話だった。

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『王様の私』で、野蛮さを問われるユル・ブリンナー演ずる王様は、仏教国らしく禿頭であった。一方、『地獄の黙示録』には、ベトナム戦争へ行った米軍大佐が、ジャングル奥地で原住民を支配して王国を作っていた。その狂王を演じたマーロン・ブランドが、禿頭にしていたことを思い出す。アジアの野蛮を描くにあたって禿頭はわかりやすい記号だったのだなと、『王様と私』を見直して感じた。