ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『マンハッタンの怪人』と『ファントム』

フレデリック・フォーサイス『マンハッタンの怪人』とスーザン・ケイ『ファントム』は、いずれも『オペラ座の怪人』の続編、あるいは二次創作と呼べる小説であり、共通点もある。以下で結末に触れつつ、ポイントだと感じた点をメモしておく。

マンハッタンの怪人 (角川文庫)

マンハッタンの怪人 (角川文庫)

『マンハッタンの怪人』は、ガストン・ルルーの原作小説以上にポピュラーなロイド=ウェバーによるミュージカル版のストーリーの続編。パリからニューヨークに渡った怪人=エリクは、富豪となっている。彼はコニーアイランドの遊園地に融資した後、オペラハウスを設ける。ただし、自分は表に出ず、陰で権力を行使する形で。
かつてはオペラ座の地下に隠れていた怪人が、今では高層のE・M・タワーの最上階に住んでいる点が、彼の階層上昇を示している。そして、力を獲得した怪人は、パリで結ばれることのなかったクリスティーヌを呼び寄せ、再び接近する。
この小説では、ロイド=ウェバー版で演出の鍵となっていたオルゴールでもあるオモチャのモンキーが、怪人とクリスティーヌを結ぶ思い出の品として効果的に使われる。オペラ座が持っていた華やかさと不気味さを、閑散期で休園中の遊園地を登場させることで引き継いでもいる。
また、怪人はクリスティーヌを再び自作オペラに出演させるだけでなく、自らも出演する。アメリカの南北戦争を題材にしたそのオペラで彼が演じるのは、顔を負傷した大尉だ(このへんの顔を隠した怪人は、『犬神家の一族』の復員兵スケキヨのようだ)。顔の醜さを、自らがいわば劇化するわけだ。
一方、現在のクリスティーヌは、かつて怪人の恋敵だったラウルと結婚しており、息子がいる。ところが、実は子どもの父は怪人だったのであり、ラウルは性的不能者だったと隠されていた真相が明かされる。この展開は唐突であり、本来は前作で完結していた物語を引き延ばすための、意外性のための意外性という印象が否めない。
しかもこの小説は、告白、手記、新聞記事、日記などの形で、章ごとに視点人物がどんどん代わる構成をとっている。そのことは効果を上げるよりも、主要人物に自身を語らせる形で心理を書くと展開の不自然さが目立ってしまうので、他人から語る部分を増やした――というような逃げにみえてしまう。
したがって、『マンハッタンの怪人』がこの形のままではミュージカルにされず、かなり改変されて『ラヴ・ネヴァー・ダイズ』として上演されたのは理解できるところだ。

ファントム〈上〉 (扶桑社ミステリー)

ファントム〈上〉 (扶桑社ミステリー)

ファントム〈下〉 (扶桑社ミステリー)

ファントム〈下〉 (扶桑社ミステリー)

一方、『ファントム』は、前半では怪人=エリックの誕生からパリに訪れるまでの前日譚を語り、後半ではルルー原作の隙間を埋め、クリスティーヌとラウルのその後にも言及する。文庫本で上下巻の長さであり冗漫な部分もみられるが、主要人物の心理は深く掘り下げられている。
エリックの父は、建築家であり音楽好きだった。母も大成はしなかったが、オペラ劇場に出られるようにと教育された過去がある。エリックの音楽嗜好、クリスティーヌへの想いには、父と母からの影響があるのだ。
エリックを妊娠中の母は、我が子がおなかを蹴ったのに対し、「誰もあなたの意見なんか聞いちゃいないんだから、この獣!」と言ってしまう。母の友人は、まだ生まれていない子のことをそんな風に言うのは縁起が悪いと不安がったが、それが的中して醜い怪人が誕生したわけだ。そのように『ファントム』には、出生の因縁めいたものが用意されている。
未亡人となった母は、あまりにも醜い息子を愛せない。仮面をかぶせられたエリックは、愛するママにキスしてもらえない。彼は、悪魔の顔と天使の声を持つ存在に育つ(『オペラ座の怪人』での彼は、怪人であると同時に音楽の天使と呼ばれた)。腹話術を覚えたエリックが、羊飼い少年の陶器の人形にハミングで歌声を与えると、母は人形のほうを可愛がった。恋人を見つけながらも息子への複雑な感情で狂っていく母。だが、エリックのほうが精神病院に入れられそうになり、彼は人形を壊して家出する。
エリックは、神父から悪魔祓いされそうにもなった。また、彼を蔑む者たちに愛犬を殺されたのだが、人間ではない犬に死後の世界は与えられないと知ってからは神まで憎んだ。醜い彼に対し、「ドン・ファン」があざけりの言葉として投げつけられたからこの名前も嫌いになった。『オペラ座の怪人』における怪人がなぜ、あのような性格になり、「勝ち誇ったドン・ジョバンニ」を作曲したか、『ファントム』はその理由を遡って創作している。
秀逸なのは、死体になった母と再会した場面。彼女が望まないのがわかっていたから、エリックは母にキスしなかった。同時になぜ、彼女から自分が拒絶されたのかも理解する。死が、母を醜くしていたからだ。つまり、怪人の容貌はまるで「死」のように醜いから、人々が忌まわしく感じるのだと同作は説明するのである。それは、『オペラ座の怪人』の仮面舞踏会でエリックが赤き死の仮面を着けていたことから逆算された解釈だろう。
エリック、ラウル、クリスティーヌの三角関係についても書きこまれている。クリスティーヌは母が死んだ年に生まれたとされ、イメージの重ねあわせが強化される。一方、2人の男の間で心が揺れ動くクリスティーヌは、ラウルを冷たくあしらったりもするのだが、彼は真面目に受けとらない。ラウルもしつこいのであって、エリックだけでなく彼までストーカー的にみえる。
何が望みかという問いを発した母にキスを望んで拒絶されたエリックは、同じように問いかけたクリスティーヌからキスを得る。『オペラ座の怪人』の怪人とクリスティーヌは互いの額に口づけしただけだが、『ファントム』のクリスティーヌは自らの意志で唇を重ね、彼の顔にキスの雨を降らせる。
『ファントム』では、エリックがオペラ座の地下に母の使っていたベッドを運び入れていた設定になっており、彼はそこで死を迎える。母に対するそんな歪んだ愛憎は、ヒチコック『サイコ』のノーマン・ベイツのマザー・コンプレックスを思い出させもする。


そして、『ファントム』は、『マンハッタンの怪人』と同じく、やがて結婚したクリスティーヌとラウルの子どもの父は、実はエリックだったという結末に至る。ルルーの原作もロイド=ウェバー版も、『オペラ座の怪人』では怪人がキスされただけで恐ろしく動揺したのだから、2人が最後の一線まで越えていたというどんでん返しと整合性がとれるのか、疑問はある。
ただ、三角関係におけるクリスティーヌの行動は、エリックに一方的につきまとわれるだけでなく、自ら近づいた面もある。彼女の態度があやふやだからこそ、3人の関係性を解釈し直す続編や二次創作が書かれもするのだ。
『マンハッタンの怪人』も『ファントム』も、すでに知られた物語の読み直しとしては、面白い観点をいろいろ含んだ作品だった。