『日本ノンフィクション史』と松本清張

読了。日本においてルポルタージュ、ノンフィクションという領域、概念がどのように形成されたかをたどり直した本であり、興味深く読んだ。
ノンフィクションは非・虚構が建前とはいえ、商業出版としては読みものとしての面白さも求められるわけで、事実と物語化のせめぎあいが『日本ノンフィクション史』のテーマともなっている。そして、本書には松本清張の名も出てくる。
謎を論理的に解くことで意外な真相が明かされる。それがミステリ小説本来のありかたのはずだった(←いわゆる「本格ミステリ」的なジャンル認識)。だが、英米の作品に影響されて日本にミステリが普及する過程で、論理よりも怪奇猟奇趣味に流れる傾向が目立った(←いわゆる「変格」への変質)。それに対し戦後、「お化け屋敷」的な旧来の探偵小説を批判し、リアリズムを重視して社会派ミステリ隆盛の道を開いたのが清張だとされる。彼は、ミステリ文壇では虚構よりも事実に寄った人とみられていたし、小説だけでなくノンフィクションも多く書いた。
その清張は『日本ノンフィクション史』ではどう扱われているか。本書では、大宅壮一ノンフィクション賞という賞の名にもなった大宅壮一がキーパーソンとしてたびたび登場する。
武田徹は、粕谷一希による次の評言を引用している。

松本清張の存在と仕事が純文学と大衆文学の間というよりも文学とマスコミの間にあるとすれば、大宅壮一の存在と仕事は戦後の論壇にあって、思想とマスコミの間にあった

さらに武田は、丸谷才一による厳しい清張批判を引用している。

たとえば、松本清張の『日本の黒い霧』などという、小説でもなければノンフィクションでもない、調査者としての怠慢と記録者としての無責任さを小説家(?)としての想像力によって補っている本が好評を博している現状は、日本におけるノンフィクション概念の未成立と密接に結びついていることだとぼくは考えるのである。

ここでは「事実」に対する清張の態度が批判されており、いってみれば彼の書くものがノンフィクションにおける「お化け屋敷」のごときものとみなされている。この批判を引用した著者の武田自身は清張に積極的には言及していないし、彼をノンフィクション史の傍流、あるいは枠外の存在と扱っているのは確かだろう。『日本ノンフィクション史』においては、ミステリ史のなかの清張像とは裏表な清張像が現れているわけだ。
本書では、ノンフィクションには内容が事実かどうか確かめられる検証可能性が必要であることも語られている。その種の論理的思考、科学的態度は、ミステリ小説の理念として語られていたものでもある。
事実を記述するはずが物語化に誘惑されるノンフィクション。論理から猟奇へと転び、社会へと揺り戻したミステリ(その後、新本格など虚構の再評価も起こるのだが)。それら2つのジャンルの交差にまで考えを広げると、本書はいっそう興味深く読める。それは、この世のありのままを写そうとした近代文学私小説へと傾斜していった日本の文学史とも関係している。『日本ノンフィクション史』では、沢木耕太郎が「私ノンフィクション」の試みへと進んでいったことも、大きなトピックになっているのだ。

新装版 日本の黒い霧 (上) (文春文庫)

新装版 日本の黒い霧 (上) (文春文庫)