ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

“ディストピア小説翻訳者に聞く”/「Life~現実化したユートピア/ディストピア」

-最近の自分の仕事

『危険なビーナス』と『ガリレオ』シリーズの共通項 東野圭吾サスペンス映像化のカギとは https://realsound.jp/movie/2020/10/post-642850.html

鴻巣友季子が語る、マーガレット・アトウッド作品の魅力 「『侍女の物語』は警告の書だったのに対し、『誓願』は現実を映す鏡」(取材) https://realsound.jp/book/2020/11/post-650531.html

村上春樹島田雅彦も受賞した「野間文芸新人賞」の役割とは? 2020年の受賞作を考察 https://realsound.jp/book/2020/11/post-652986.html

菊池風磨主演『バベル九朔』で味わうシュールな世界観 万城目学作品はなぜ映像化に向いている?

https://realsound.jp/movie/2020/11/post-655137.html

史上最多の応募総数「文藝賞」贈呈式 ラノベ出身作家と16歳の高校生が受賞

https://realsound.jp/book/2020/11/post-655782.html

 

 昨年、ザミャーチン『われら』を新訳した松下隆志氏とハクスリー『すばらしい新世界』を新訳した大森望氏のゲンロンカフェ対談に飛び入り参加した。なので今回、私の発案で行った上記の『誓願』にまつわる鴻巣友季子氏インタビューは、個人的にはディストピア小説傑作の訳者にお話を聞くシリーズという心持ちだった。

 
 
10月25日「文化系トークラジオLife~現実化したユートピア/ディストピア」放送直前にSNSに記した雑感まとめ

「現実化したユートピア/ディストピア」がテーマの10月25日放送「文化系トークラジオLife」にはアトウッド『誓願』の解説担当した小川公代氏も出演。その文章で言及されていたわけではないが、小川氏は「群像」8月号でケアの倫理を論じていた。『侍女の物語』『誓願』は女性が究極の“ケア”を強制される話なので解説の人選に納得した。

  

 テーマがディストピアだというから以下のメールを投稿してみた(ラジオに投稿するのは、去年のキスエク番組以来w)。 

 小学生の時、子ども向けで読んだ『平家物語』を最近、読み返しました。すると、今と大差ないなと思うエピソードが。権力を持つ平清盛は、少年三百人を選び京都中に放ちました。揃いの赤い衣裳で六波羅禿(ろくはらかぶろ)と呼ばれた彼らは、平家の悪口をいう者をみつけると、家へ押し入って盗みを働いたうえ、本人を清盛へ突き出しました。一方、現在のネットでは、誰かを悪だ敵だと認定すると、いっせいに誹謗中傷し仕事の邪魔をする。煽動するリーダーが必ずいるわけでもないのに、機動力は六波羅禿以上。伝統的な告げ口のディストピアがグレードアップされたんですね。

 

  今回の「Life」メインパーソナリティが塚越健司氏だということで思ったことがある。

 2011年12月刊の西田亮介・塚越健司編著『「統治(ガバナンス)」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』に私も寄稿したのだった。情報化社会における政治とインターネットの関係について、当時の民主党政権下の現状と以後の見通しを論じた共著だった。このうち、塚越氏の論考は「政府/情報が開かれる世界とは-情報の透明化とリーク社会」と題されていた。「透明化」の語にもあらわれている通り、同書では未来の政治の理想像、いってみればユートピアについても書かれていた。

 その時点で、ウィキリークスに代表されたネットへのリークという行為には、功罪あるにせよ政治の透明化に資すると希望がもたれていた。「Life」の以前のレギュラーだった津田大介の『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』(2009年)などでも、SNSは社会にポジティヴな役割を果たすと期待されていた。

 しかし、昨年のあいちトリエンナーレ騒動をめぐって津田氏が誹謗中傷されまくったごとく、日本人のSNS使用は殺伐としたものになったし、大統領がツイッターで暴れたアメリカはあんな風だし、リークよりもむしろフェイクニュースのほうが社会を動かしてしまっている。現在、ネットは政治に功よりも罪を多くもたらしているとしか思えない。

 で、先の『「統治(ガバナンス)」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』で私がなにを書いていたかといえば、「悪しき統治を想像する-ディストピア小説の系譜をめぐって」なる場違いな内容だった。研究者中心に政治のあるべき姿が語られる同書のなかで、あえてオーウェル『一九八四年』などのディストピアについてとりあげたわけ。いかにも文芸評論家っぽい逆張りである。後にその延長線上で単著『ディストピア・フィクション論』を書きもした。

 そして、『「統治」を創造する』から9年が経った今、悪しき統治が想像だけでなく創造されてしまったな、というのが素朴な感想。

文化系トークラジオLifeニュース版|TBSラジオFM90.5+AM954~何かが始まる音がする~

「死刑囚表現展2020」

「死刑囚表現展2020」に行ってきた。「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」主催となっているが、植松聖や加藤智大の自意識誇示の“作品”をみせるのは、廃止運動にむしろ逆効果な気が……。それにしても、ポケモンの絵を真似て「死刑廃止Getだぜ!」とか、絞首刑の輪縄の前にいる少年を描いて「MajiでTsuraれる5秒前」とフレーズ入れてる山田浩二、吊られた絵も出品しているし……印象強かった。

 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』には、クローンの少年少女たちが心を有した人間であることを証明するため、彼らの手による絵や工作を提出させるという話が出てきた。死刑反対の文脈で催されているこの展覧会も、死刑囚の人間性を伝えたいということなのだろう。とはいえ、そのコンセプトを弄んで鑑賞者をからかおうとするような“作品”も散見されて、彼らをどうとらえればいいのかよくわからない。

 悪ふざけなのか、死への恐怖で心が不安定なのか、社会への敵対心か。そこらへんが気になるものの、出品者一人ひとりがどんな罪を犯したのか、刑務所で最近はどんな生活ぶりなのか、精神状態は、といった周辺情報はない。かといって、周辺情報に関係なく作品自体を鑑賞せよというのも違うだろう。死刑囚だからここへ出品できるという前提がまず明らかなのだから、その肩書抜きで観るのは不可能だ。

 なんとも、もやもやする催しであった。

http://www.forum90.net/event/index

「SFマガジン」の思い出

 最近の自分の仕事

-太田忠司『遺品博物館』の書評、ハヤカワ文庫創刊50周年特集のエッセイ「本の山のなかで遭遇した「ハヤカワ」」 → 「ハヤカワミステリマガジン」9月号

-「夜明けの紅い音楽箱」(とりあげたのは森村誠一『青春の証明』)、第20回本格ミステリ大賞小説部門/評論・研究部門選評 → 「ジャーロ」No.73

-斜線堂有紀『楽園とは探偵の不在なり』、西澤保彦夢魔の牢獄』の紹介 → 「小説宝石」10月号 ここにも掲載→ 

円堂都司昭が読む『楽園とは探偵の不在なり』特異な設定による魅力的な問い | 本がすき。

-竹本健治『これはミステリではない』書評 → 「ハヤカワミステリマガジン」9月号

-『SFマガジン』編集長・塩澤快浩が語る、SFが多様性を獲得するまで 「生き延びることしか考えてきませんでした」|Real Sound|リアルサウンド ブック(取材)

 

 実は昔、就活で早川書房会社説明会へ参加したことがあって、これは私には絶対無理だとすぐあきらめたのだった。その説明会には当時の「SFマガジン今岡清編集長も出席していて、初期の中島梓/栗本薫をよく読んでいた私は、おおっ、と密かに盛り上がっていた(笑)。

 上記リアルサウンドブックの塩澤編集長インタビュー開始前の雑談では、その話をした(笑)。

 私がハヤカワというブランドや「SFマガジン」にどのように出会ったかについては、「ミステリマガジン」9月号のハヤカワ文庫創刊50周年特集のエッセイ「本の山のなかで遭遇した「ハヤカワ」」で書いた。

 その前後のことである。1970年代半ば、小6~中1の私は、通うようになっていた市立図書館で「SFマガジン」に当時連載されていた福島正実『未踏の時代』をなぜか毎号読んでいた。同誌初代編集長による未完のその回想録で、国内SF黎明期のできごとに初めて触れたのである。だから、その後の日本SF史について同誌現編集長の口から聞けたことは、感慨深かった。 

ミステリマガジン 2020年 09 月号 [雑誌]

ミステリマガジン 2020年 09 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/07/22
  • メディア: 雑誌
 
未踏の時代 (ハヤカワ文庫JA)

未踏の時代 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

『日本小説批評の起源』

 

日本小説批評の起源

日本小説批評の起源

  • 作者:渡部直己
  • 発売日: 2020/06/26
  • メディア: 単行本
 
 

 著者がセクハラ疑惑で早大を解任された件に関しては釈然としないままだが、「ありうべき小説批評の源流を求めて馬琴から『水滸伝』の奇蹟の注釈者・金聖嘆の「漢文」へ」という紹介文をみたからには無視できない。で、読み進めている『日本小説批評の起源』、予想以上に面白い。

 私は小学4、5年生の頃、子ども向けに書かれた『八犬伝』を愛読していた。同じ本を繰り返し読むのではなく、複数社から出ていた『八犬伝』各種を読み比べ、小学生向けから中学生向けへ、その後に大人向きの山手樹一郎版へ、パロディの山田風太郎忍法八犬伝』へなどと進んでいった。馬琴の原文を読んだのは、大学生になってからだった(けれど、あまりに長いから全文ではなく拾い読みだった)。

 たぶん本を買い与える親御さん向けなのだろう、子ども向けの『八犬伝』の巻末にも国文学者とかの解説が載せられていた。そこには、滝沢馬琴は中国の『水滸伝』から話の大枠を借りて『八犬伝』を執筆し云々~とあり、そこから興味を持って子ども向けの『水滸伝』各種をやはり解説こみで読んでいった。馬琴に「稗史七則」という小説作法論があること。百二十回本や百回本が流布していた『水滸伝』に注釈を付したうえ、冗長だとして後半をぶったぎり七十回本に編集した金聖嘆という人がいたこと。――これらの知識を解説から得て、物語間の影響関係、ヴァージョン違いなどへの関心が芽生えた。物語というものはなんだかすごいなぁ、と子ども心に思ったのだ。それが、私にとっての文芸評論的なものとの出会いだった。

 だから、金聖嘆と馬琴に小説批評の源流をみてとる『日本小説批評の起源』は、あの頃の熱に浮かされたような読書体験をわぁっと思い出させると同時に、その根っこの背景になにがあったかを論じてくれる興味深い内容でもあって、私の頭は膨れ上がっている。

 この本では、口承から小説へとまとめられた『水滸伝』、浄瑠璃・歌舞伎の影響も受けた『八犬伝』といった観点が重視されている。また、著者は、柄谷行人蓮實重彦が力を持った1980年代に2人の影響下で批評家として本格的に歩み出した人でもある。私も、『八犬伝』『水滸伝』→柄谷・蓮實→歌舞伎・文楽を通ってきた人間なので、そこらへんが織りこまれた著者の論述に、なんだか走馬灯をみせ続けられているような気分もして、疲れてしまう感じもある。

 なので、まだ読んでいる途中だというのに、ガス抜きにこんな経過報告を書いたのだった。

 さて、続きを読むか。

西田亮介『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』

 

  コロナに対する政府の初動の実態と国民の認識のズレがどう生じたか検証した本。「耳を傾けすぎる政府」が実効性に疑問の対策を決め、実行に時間がかかり、民意を聞いているようにみえなかった経緯がよくわかる。短期間でここまでまとめた著者に感服。特に重要なのは、過去の新型インフルエンザの経験を社会とメディアが忘却していたことが、今回のコロナ禍の混乱につながったという指摘だろう。ふり返れば、この社会は、いろんなことを忘れてきたのだった。

 

 

最近の自分の仕事

-人工知能、監視社会、加速主義……中村文則『R帝国』はコロナ禍の現実とシンクロする https://realsound.jp/book/2020/08/post-609599.html

-ノストラダムス「大予言」の残像 終末迎えず20年、6月に著者・五島勉さん死亡(コメント取材) 朝日新聞(8月30日)https://digital.asahi.com/articles/DA3S14603520.html?pn=3

-『群像』編集長・戸井武史が語る、文芸誌と社会「“時代”への問題意識を表現できる媒体に」(取材) https://realsound.jp/book/2020/09/post-615358.html

-IT革命、ケータイ小説ライトノベル……“ゼロ年代”に文学はどう変化した? 文学批評の衰委と女性作家の台頭 https://realsound.jp/book/2020/09/post-615756.html

キスエク“フェニキスの涙”とリンカネ“レウカンセマム”

 (現時点では3人組の)プログレッシヴ・ロックのアイドル、XOXO EXTREME(キスエク)の一色萌が今年、このグループのバック・バンドをしばしば務めているSilent Of Nose Mischief(サイノー)のMorota(Key)と仁科希世彦(Dr)がやっているバンド、re-in.Carnationのボーカルとなって活動し始めた。両グループの新曲は、対照的だ。

 衣裳が白いものにチェンジした時期に発表されたXOXO EXTREME“フェニキスの涙”のまい作詞には「羽ばたけるでしょ 不死鳥のように」。それに対し、黒い衣裳のre-in.Carnation”レウカンセマム”の一色萌作詞には「飛び出した蝶は 空を見ぬまま」。いずれも飛翔のイメージだが、雰囲気は別ものである。2曲とも「輪廻」という言葉が出てくるけど使いかた異なるし、世界観の違いが興味深い。RUSH+YES的で80年代プログレ的な前者と、ミニマルでしっとりした曲調の後者ではサウンドの色あいも違う。

 バンド名の和訳でもある「輪廻」の言葉を織りこんだ“レウカンセマム”の詞世界は、リンカネというバンドを私はこういうものだととらえていますという萌氏の1つの解釈なのだろうし、キスエクとは違ったことをしますという意志表示のようにも感じられる。いろいろ想像させるフレーズがあるし、独特なムードを持った詞だと思う。

  

フェニキスの涙

フェニキスの涙

 

 

レウカンセマム

レウカンセマム

  • 発売日: 2020/08/22
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 

最近の自分の仕事

-「収容所とホテル――東浩紀笠井潔森村誠一における人と数の問題」 → 「CRITICA」vol.15

-ノストラダムスの大予言が残したもの娯楽超え危うさも(インタヴュー取材) https://www.asahi.com/articles/ASN8F5321N8CUCVL01W.html?iref=com_latestnews_02

『日本沈没2020』

日本沈没2020』については、ここ↓に書いた。

-日本沈没2020』は何を描いたのか? 賛否呼んだ同作の狙いを、原作との比較から考察 https://realsound.jp/book/2020/08/post-599671.html

 このサイトにしては長い原稿になったので削った要素もある。そのいくつかを雑記。

 

 原稿で触れた通り『日本沈没2020』には、2006年映画版や小松左京谷甲州日本沈没 第二部』の要素をとりこんだところがある。かつてスティーヴン・キングは自作のホラー小説『シャイニング』を映画化したスタンリー・キューブリック監督の改変を痛烈に批判した。それに対し、キングが執筆した続編『ドクター・スリープ』を映画化したマイク・フラナガン監督は、『シャイニング』の小説版と映画版の要素をいずれもとりこみ、融合させる離れ業をみせた。その域まではとても達していないが、『日本沈没2020』にも融合に関するチャレンジがみられた。

 

 また、すでに指摘されている通り、『日本沈没2020』の家族の状況設定は『サバイバルファミリー』(2017年)に近い。なぜかあらゆる電気が使えなくなり、ライフラインが途絶し都市機能が麻痺した東京から、噂から西のほうに希望があると期待して必死に旅する一家の映画だ。

 一方、歩の母が水中で頑張るシーンは、津波による転覆で上下逆になった豪華客船に閉じこめられるパニック映画『ポセイドン・アドベンチャー』(1972年)のあるエピソードを思い出させる。

日本沈没2020』には、災害フィクションの定跡をたどったような部分がちらほらみられる。

 例えば、母の乗った飛行機が海底噴火の影響(アニメでは機体が受けた衝撃と揺れしか表現されないが、ノベライズでは噴石の衝突が書かれている)で川に不時着するが、『日本沈没』2006年版映画では首相の乗った飛行機に火山弾が当たり墜落していた。

 

 

最近の自分の仕事

-尾崎世界観が語る、人からの影響とコロナ禍の音楽活動「今はいらないものに気づく時間」(文・取材)https://realsound.jp/book/2020/07/post-590333.html