ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

新潮文庫「ニューウェーブ注目作家」フェア

今日の朝刊に、新潮文庫5月の新刊広告が出ていた。今月のフェアは「ニューウェーブ注目作家」。鈴木清剛中原昌也といった「J文学」(ピークは99年頃?)を象徴した作家よりも、伊坂幸太郎舞城王太郎の“両太郎”の名のほうが大きく印刷されていることに時代の移り変わりを感じる。
舞城『阿修羅ガールISBN:4101186316、中原『あらゆる場所に花束が』ISBN:4101184410受賞作で、どちらも福田和也が推したのであったな。舞城と古処誠二はいずれも講談社メフィスト賞を受賞し、“ミステリ作家”としてデビューしたが、二人とも「新潮」登場後から“文学”寄りの作家イメージが(も)出来上がっていったよね――など、6人の「ニューウェーブ注目作家」名を眺めて(伊坂、舞城、鈴木、中原、古処、田口ランディ)、あれこれ連想したことはある。その一部を、雑記してみる。

古処誠二『フラグメント』

東海大地震で崩落した地下駐車場。密室状況下の暗闇で何が起こったのか?

広告に記された『フラグメント』ISBN:4101182310、既視感を覚えた。調べたらやっぱり、以前講談社ノベルスで刊行された『少年たちの密室』を改題・加筆修正したものだった。原題の本について自分は、評を書いたことがある。 → http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/syohyo/63.html
その時点では、古処が今のような戦記作家になるとは、まるで予想していなかった。確かに前から、『UNKNOWN』、『未完成』といった自衛隊を舞台にした本格ミステリを書いてはいた。でも、彼にとって「本格」よりも「軍事」のほうが重要なテーマであるとまでは、とらえていなかった。せっかくセンスがあるのだから、古処には、たまには正面切った本格を書いて欲しいと願うのだけれど……。

伊坂幸太郎舞城王太郎吉田修一阿部和重/『DEATH NOTE

伊坂のデビュー作『オーデュボンの祈り』は、人語をしゃべり未来が見えるカカシの登場する孤島ミステリで、その奇矯さからして、メフィスト賞からデビューしても不思議でないように思われた。
また、彼の出世作となった『重力ピエロ』については、描かれた兄弟の葛藤が中上健次を思い出させる点や、ミッシングリンク・テーマなどで、舞城のデビュー作『煙か土か食い物』との共通性を感じた人も少なくなかったらしい。だから、一時期は“太郎つながり”てな言われかたもした。
ところがその後、文体に関しては破調の舞城とは正反対に、スタイリッシュな伊坂というイメージが定着した。それゆえ、舞城をはじめとする「ファウスト」系の若手作家になじめないミステリ周辺読書人が、伊坂作品を歓迎している――そんな棲み分けになったみたいな印象もある。


現在に至るまでの伊坂の基本的な作風を方向づけたのは、今回新潮文庫に入った『ラッシュライフ』(デビュー2作目の長編)だった。
ラッシュライフ (新潮文庫)
複数のストーリーが並行して走り、それが意外な交差、不可思議な模様を作り出す伊坂ワールドの出発点。いずれ浮かび上がる模様のための伏線、パズル趣味といったあたりは、「本格」ファンをも喜ばすテイストがある。
ラッシュライフ』の構成を思いついた瞬間について、著者はインタビューでこう語っていた。

新宿駅の入り組んだ路線図が目に入ってきたんですよ。そのときに、複数の物語が併走する小説を書きたいと思ったんです。

『ミステリアス・ジャム・セッション』構成・村上貴史ISBN:4152085444

この、路線図を見下ろす作家の視線は、ある小説を思い出させる。吉田修一の『パーク・ライフISBN:4167665034

日比谷交差点の地下には、三つの路線が走っている。この辺り一帯を、たとえば有楽町マリオンビルを誕生日ケーキの上飾りに譬え、上空から鋭いナイフで真っ二つに切ったとすると、スポンジ部分には地下鉄の駅や通路がまるで蟻の巣のように張り巡らされているに違いない。

(小説中ではべつに暴力的な展開を迎えるわけではないのだが)この一節は、ある種の凶々しさを感じさせる。それは、霞ヶ関の官庁街の下を通る地下鉄に毒物をまこうと発想した瞬間の、オウム真理教の路線図を見下ろした視線(吉本隆明用語を借用すれば「世界視線」)を思い出させるのだ。吉田修一が「鋭いナイフで真っ二つ」と、ことさら不穏な書き方をしたのも、オウム事件を意識したと読めてしまう(なにしろ日比谷の地下鉄路線の多くが、霞ヶ関へと走っていくのだから)。
パーク・ライフ』における地下を見下ろす視線には、桐野夏生阿部和重作品について指摘した「ヘリコプター的な視点」とオーバーラップするところがある。

シンセミア』には不思議な距離感があります。一つの町の上をヘリコプターが徘徊して、いろいろな人を見ているような感じじゃないですか?


阪神大震災のときに飛んでいたヘリコプターのイメージがあります。ヘリが空をパーッと旋回していて、こっちでこんなことが起きてます、みたいな。そういうイメージがあって、すごい面白い距離感をお持ちなんだなと思いました。神の視点でもないし。

「文藝」2004年夏号 阿部との対談から桐野発言抜粋

ポイントは「神の視点でもないし」というところ。小説における「神の視点」が古典的なものとされて久しいが、その後、人間はGPSに代表されるような、擬似的な「神の視点」「世界視線」を入手した。かといって、この世界のリアリティが複数化、多層化してしまっている以上、今さら一つの「神の視点」を用意するだけでは、優れた小説にはならない。
吉田修一阿部和重は、そのことに敏感だった。『パーク・ライフ』には、気球から吊り下げられた小型カメラという、なんとも頼りない不安定な「視線」が登場する。また、パートごとに視点人物が移り変わる『シンセミアISBN:402257870X、俯瞰する「視線」だけでなく、ネズミに入り込んで床を這い回る「視線」まで登場する。それらは、いってみれば「神の視点」のパロディだろう。唯一の「視点」などありえない、複数のリアリティの存在を認めるしかないと、それらのパロディは示唆している。
では、伊坂の「視線」は? 『ラッシュライフ』以降の伊坂小説の魅力は、併走する複数のストーリーが、独特のしかたで組みあがっていく様子にある。それを追う読者は、路線図を見下ろすごとく複数のストーリーを見下ろしている作者の「視線」を意識し、追体験することで、快感を得ている。
それは、古典的な「神の視点」のリバイバルか? 微妙に違う、と思う。寓話的な偶然性で複数ストーリーがパズルを組み上げる伊坂小説は、それらを統合し見下ろしている「視線」を過度に意識させる。その「視線」は誇張されており、ユーモラスであるとともにヒューモアをたたえている(だから、作家伊坂には“癒し”や“和み”的なイメージも生じる)。
伊坂は、自作の人物やエピソードを別の作品にもよく登場させる。デビュー作のカカシにしても、他の作品でよく話題になる。あのカカシは未来を予見できる点で「神」に近かったが、“殺されて”しまったことで、自分が「神」でないのを証明していた。その後の、複雑な路線図みたいな作品群が意識させる、作品を見下ろす「視線」にも、カカシの残影が感じられないか。
気球から吊られたカメラ、視線が入り込んだネズミに相当するものが、伊坂作品においてはカカシだったのだ。


「神の視点でない」のに神的な視点を持っているといえば、『DEATH NOTEISBN:4088737954。人間界に出てきて、ある一定のルールのもとで無関心を保ちながら人間たちとかかわるが、普通の人間からはそれが死神だとは認知されないという独特な距離感。ストーリーが複雑化、肥大化していく『DEATH NOTE』について、僕が一番興味を抱いているのは、実は、今後の死神たちの態度だったりする。
一方、伊坂幸太郎も、「オール読物」に「死神シリーズ」と呼ばれる、やはり死神の登場する連作短編を掲載してきたのであった。このシリーズが単行本化された際には、そのルールや死神の無関心(のはずなのに人間に興味を持ってしまう成り行き)のありように関して、『DEATH NOTE』との比較論でもやってみたいと思う自分であった(と予告めいたことを書いても、果たされないことは少なくないわけだが……)。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20041225