ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

「ジョン・レノンが撃たれた日」と小説新世代

(小説系雑誌つまみ食い 27――「小説新潮」12月号)

小説新潮 2007年 12月号 [雑誌]
明日はレノンの命日に当たるが、「小説新潮」が「ジョン・レノンが撃たれた日」と銘打ち、巻頭特集を行っている。蓮見圭一、小路幸也薬丸岳諸田玲子が1980年12月8日をテーマにした短編を寄せ、藤田宣永と大崎善生がエッセイを書いている。
この特集のように近年、小説雑誌において、ロックやバンドがネタにされることが増えているが、なんとも複雑な思いをさせられる。
小説雑誌の停滞した空気に対し、音楽という異質な要素を持ち込むことで活性化しようとする面。
いわゆる「大人のロック」的なノスタルジーとして、中高年読者を懐かしがらせようとする面。
小説雑誌のロック企画には、それら両面が混じっているが、どうも後者が勝っていることが多い。それが、自分は愉快ではない。
今回のジョン・レノン特集もそうだ。各短編に共通するキーワードは「思い出」。しかし、あえて書くが、1980年12月8日のジョン・レノンが、それほど思い出されるべきものだろうか? 死ぬ直前にオノ・ヨーコとの共作で《ダブル・ファンタジー》を発表していたとはいえ、それ以前の5年間は音楽活動から遠ざかり主夫生活を送っていたのだ。もう、あの人は今? 状態だったのだ。
《ダブル・ファンタジー》を出していたおかげでかろうじて、「レノンが死んだって? へえ、まだ生きてたの」と言われなくてすんだものの、1980年12月8日時点でジョン・レノンに現役感は希薄だった。あの頃のロック・リスナーは、むしろ当時における現在進行形=ニューウェイヴのほうに共感していたという人だって、少なくなかったはず。僕はそうだった。
ところが、今回の特集でそうしたことは反映されておらず、レノンは素朴に「思い出」の対象にされてしまっている。


一方、「小説新潮」今号には、「作家になる道」と題した特集もあり、そのなかでは「21世紀を担う」小説新世代として、5人の作家がグラビア&インタビューで取り上げられている。こちらは巻頭特集とは逆の、将来に向けた企画であり、辻村深月万城目学道尾秀介西加奈子といった面々が登場するが、先頭で扱われているのが伊坂幸太郎
伊坂といえばこれまで、自作のなかでボブ・ディランビートルズの名を出してきたが、それはノスタルジーを喚起したいとか、よく知られた固有名詞を使って共感を得たいとかいうものではなく、あくまで物語を構成する一素材として使う姿勢だった。早い話が、特集「ジョン・レノンが撃たれた日」とは、反対の創作姿勢なのである。
伊坂は「小説新潮」のインタビューで、作家専業になった時期をこう振り返っていた。

バスの中で、斉藤和義さんの曲を聴いていたんです。毎日音楽のことを考えているから、こんな曲が作れるし、こんな詞が書ける。僕が『重力ピエロ』を片手間に書いても、斉藤さんの曲みたいな素晴らしいものはできないだろう……。それで、よし、会社を辞めよう、と。

斉藤和義は伊坂と一緒に『絆のはなし』という本を出しているが、彼のデビュー作《青い空の下……》には、〈僕の見たビートルズはTVの中〉という曲があった。この曲名にも表れているような対象との距離のとりかたが、斉藤と伊坂では近いかもしれない。


伊坂の新作長編は『ゴールデンスランバー』。この題名は、ビートルズの曲名にもあるものだ(ジョン・レノンではなくポール・マッカートニー作)。この本については、来週中には読んで某所で書評を書く予定。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20060927#p1