ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

森谷明子『れんげ野原のまんなかで』

(本当はもっと早く別の場所に載せようと思っていた幻の書評のための走り書き)
れんげ野原のまんなかで (ミステリ・フロンティア)
図書館を舞台にした連作ミステリ。
市のはずれのススキ野原に立地し、訪れる人の少ない秋葉図書館は、土建先行の地方自治の典型だった。そこでは多数の書物をコードで管理しているが、個人情報の集まる場でもあり、第三話ではその一部が流出する事件が起きる。また、この作品には重度の喘息であるため、図書館の空気を苦手とする子供が登場する。自治体間の行政サービスの差や庶民の所得格差も描かれる。――図書館というある種夢々しい場所を舞台にしながら、けっこう現実のあれこれを書き込んでいるのである。
とはいえ、この作品はいわゆる“日常の謎”ものの王道を行く。“日常の謎”派の場合、北村薫を筆頭に、ご近所の知恵者が困った出来事を解決するという民話のファンタジー性を受け継いでおり、『れんげ野原』も例外ではない。閉館後の図書館に子どもたちが居残ろうとする第一話をはじめ、子どもやお年寄りの来館者が多いように書かれている。つまり、社会の現実にまだ未参入か、すでに降りたかという人々が舞台の目立つ位置にいて、内容のファンタジー性(=どこか浮世離れした感覚)を高めている。さらに、図書館建設に際し自分の土地を寄付した「秋葉のだんな」がたびたび出てくるが、豪族の末裔と設定され“村の顔役”的な彼などは、民話の登場人物そのものだろう。
図書館員たちの仕事にまつわる現実と、本で旅をさせてくれる図書館のファンタジー性を交差しつつ、最終的に後者のトーンで話をまとめ、読者にカタルシスを与える。作者のこのへんのさじ加減は、なかなか巧みだと思う。

作中の図書館&旧家と、浦安の図書館&郷土博物館

『れんげ野原のまんなかで』は図書館を舞台にした連作だが、第四話だけ舞台が異なる。大雪で帰れなくなったヒロインが、図書館のすぐ隣に建つ「秋葉のだんな」の家に泊めてもらい、そこで謎に出会うエピソードなのだ。慶応の頃に原形ができたこの旧家は、増改築を繰り返し野放図に大きくなっていた。その分、多くの記憶をためこんだ場所でもある。
一方、図書館は、蔵書の入荷と整理を繰り返し、記録を蓄積していく場所。作者はこの連作を書くにあたり、こうした記憶と記録の対比を視野に入れている。ヒロインは、秋葉家への宿泊の体験を反芻するため、後日、「日本の民家」という本の記録を読み返すのだ。二つの対比は、記憶=ファンタジー、記録=現実ともいいかえられるだろう。
『れんげ野原』の最終話は、廃校になった学校の図書室の本が、図書館で見つかるところから始まる。そして、隠されていたある記憶が掘り返される。だから、その直前に置かれた第四話は、最終話に備えて読者に記憶のテーマを印象づける意図があったと推察される。


ところで、『れんげ野原』で、図書館と旧家が隣り合わせる風景から、浦安市の図書館と郷土博物館を連想してしまった。
浦安市の図書館は、自治体図書館としては全国トップレベルの充実度だという。したがって利用率も高いし、小説のそれとは雰囲気がだいぶ違う(作中の秋葉図書館もしだいに利用者は増えていくのだけれど……)。
ただし、秋葉図書館の前に乗車料金100円の市内循環福祉バスが停車する点は、浦安市中央図書館と共通している(浦安の「おさんぽバス」も100円で、やはり病院、公民館などの公的施設を結ぶ)。そして、浦安市中央図書館の隣には、旧家はないけれど、漁師町だった頃の浦安の町並みを再現した郷土博物館がある。ここでは昔の暮らしを知るお年寄りたちが、子どもたち相手に説明員を務めていたりする。図書館の記録とお年寄りの記憶が、相補うように隣り合わせているのだ。
郷土博物館に再現された町並みなど、東京ディズニーリゾートの広大さに比べれば、ほんとに狭い、ごくささやかなテーマパークにすぎない。新しい郷土博物館の建設については反対論も強かったが、実際にできてみれば(2001年開館)、このように記憶をとどめる施設があってもいいよな、と素朴に思う。もちろん、市の財政事情が許す限り、という限定条件つきだけれど。