ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

綿矢りさ『夢を与える』

(小説系雑誌つまみ食い 16――「すばる」5月号、小説系とはいえないけど「論座」5月号)

すばる 2007年 05月号 [雑誌]
「すばる」5月号に、「『現在』女性文学へのまなざし。」の第一回として、綿矢りさインタヴュー(聞き手:榎本正樹)が掲載されている。ここで綿矢は、初めての「長編」といっていい『夢を与える』を書くにあたり、“ベタ”な物語にこだわったと話している。
一方、綿矢は「論座」5月号で、篠山紀信と対談し、紀信に激写されている(綿矢りさが与えるもの/砕くもの 時代の表層へ――「アイドル」にむかう理由)。記事中の発言によると、対談相手は綿矢の希望だという。『夢を与える』はアイドルを主人公にした小説だが、綿矢はアイドル本人よりも、アイドルを撮り続けてきた写真家に話を聞きたかったのだといっている。
あえて“ベタ”にこだわり、アイドル本人よりも写真家と話したがる姿勢に、作家・綿矢りさの現在の方法意識が感じられる。


論座」での綿矢と紀信のアイドル談義には、面白いやりとりが多い。例えば、こんな部分。

篠山 会えない人に会えるのはうれしいじゃないですか。ということは、盗撮されてもしょうがないんだよね。
綿矢 そんなもんですか。
篠山 だって、会えないんだもん。一般の人が、綿矢りさってどういう人か見たいという欲望があればパパラッチが来るわけです。

文藝賞芥川賞を若くして受賞し、“アイドル”作家にされた綿矢は、篠山がいうような“被写体”となった。彼女のアイコラが、ネット上にアップされもした。
それに対し綿矢は、『蹴りたい背中』では、雑誌の人気モデルの顔とヌード写真を不器用にコラージュするオタク男子高校生を登場させた。また、『夢を与える』では、性愛画像のネット流出によって破滅するアイドルをヒロインにした。これら2作については、読者の側はどうしても、作者の実人生における“被写体”としてのストレスが、作品内容に反映したのではないかと想像してしまう(このことに関し綿矢は、主人公=作者ではないとしながらも、そう読まれることを受け入れたうえで創作している)。
ところが、写真家・紀信は、“被写体”となったことに傷ついたであろう本人にむかって、〔盗撮されてもしょうがないんだよね〕と言い放つ。このやりとりの時、紀信、綿矢はどんな表情をしてたんだろ? と素朴に思ってしまう。


普通の女子高生が、オタク男子の作った不器用なアイドルコラージュに向ける視線に着目した『蹴りたい背中』。性愛画像の流出により、世間からバッシングされる状況を物語の盛り上がりに使った『夢を与える』。こうして並べると、『蹴りたい背中』は日常を非凡な才能で表現した作品であり、『夢を与える』はアイドルの非日常を通俗的に書いた長編であると、どうしてもいいたくなる。
綿矢は以前、「文藝春秋」3月号での石原慎太郎村上龍との鼎談で、龍の『コインロッカー・ベイビーズasin:4061831585うような発言をしていた。まず、親の視点で長編の冒頭を書き始め、その子どもである主人公に視点を移して本編に突入。以降は、主人公の成長過程を追うという全体像が、『コインロッカー』と『夢を与える』で共通している。
しかし、『夢を与える』の場合、面白く読みはしたが、先が見える“ベタ”な展開が多いせいもあって、話運びがところどころ冗漫に感じられた。そこまで書かなくてもわかってるよ、といいたくなるような。で、『蹴りたい背中』はよかったのにな、とか思うのだ。


でも、こういう感想を持つことに、微妙な後ろめたさがある。というか、綿矢から、罠にはめられたみたいな気分になる。
『夢を与える』のヒロイン・夕子は、普通の女の子が成長していく姿を長期的に追った食品会社のCMからアイドルになる。また、現実の卒業式、葬式に出席した映像が、夕子の好感度を上昇させる。彼女の“普通”さを、世間は好んだわけだ。しかし、ネットに流出した性愛画像は、周囲が規定していた“普通”像から逸脱しており、夕子はバッシングの対象になる。
そんな小説の内容を考えた場合――――綿矢の等身大レベルと思える「日常」を描いた『蹴りたい背中』を評価し、アイドルという「非日常」の物語である『夢を与える』を評価しない読者は、夕子に“普通”を求め、彼女の逸脱を叩いた世間によく似た位置に立たされる。その時、読者である自分は、悪役になってしまう。
このような図式まで視野に入れれば、『夢を与える』は、読者を妙な形で“巻き込む”小説になっている。
(作者本人は、そんなごちゃごちゃしたことまで、考えてないだろうが)
夢を与える


長期にわたって、成長の記録を見せるCM。これは、見る側がその展開に直接関与できないにしても、容易に成長に立ち会えるという意味では、「育成ゲーム」的な光景だろう。『夢を与える』では、CM関係者が、国民が育てる少女というコンセプトを述べる場面もある。
東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』でライトノベル美少女ゲームをとりあげ、キャラクター視点と、それを操るプレイヤー視点が作品内で交差するあたりに「ゲーム的リアリズム」をみていた。
ラノベでもゲームでもない『夢を与える』に関しても、東流の読解(「環境分析」)の応用は可能だろう。夕子自身、母親、所属会社、一般視聴者、友人、この小説の読者などが、キャラクター=「夕子」のプレイヤーの地位を争う物語として読むなどして。


ちなみに、夕子が異例の「半永久的」な契約を結んでいたのは、チーズのCMだった。その食品メーカーは、消費期限の短いアイドルとは違って、自社は「半永久的」に安泰と信じきっているわけだ。
しかし、僕たちは、不祥事を起こしてあっという間に組織がボロボロになったチーズのメーカー(雪印)があるのを記憶している。
チーズのCMという設定は、綿矢による小説家的な皮肉だったのだろうか。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20051011#p1

  • 9日夜の献立
    • いわしの丸干し
    • ゆでキャベツと厚揚げのあえもの(ピーナツバター、しょうゆ)
    • ゆでブロッコリー(マヨ)
    • ほうれん草のおひたし(かつぶし、ポン酢)
    • 新玉ねぎの味噌汁
    • 玄米ごはん
  • 10日夜の献立
    • 鶏のから揚げ、オニオンスライスの唐揚げ、ピーマンの素揚げ
    • ゆでキャベツ
    • チーズクラッカー
    • 玄米ごはん
    • ビール、雑酒、赤ワイン