ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『最後の猿の惑星』

猿が支配するようになった地球。青空学級のような形で人間が猿に文字を教える場面もあるが、基本的に人間は猿の召使状態となっている。チンパンジー、オランウータンはまだ人間と共存しようとしているが、ゴリラは人間など殺すべしと考えており、同じ猿のなかでも意識差がある。
チンパンジーで猿のリーダーであるシーザーと仲のよい人間が黒人と設定されていることだし、猿同士あるいは猿と人間の軋轢が人種差別のアナロジーであることは明らか。かつて奴隷だった猿が人間以上の地位を得て、それは正しいありかたになっているのか。かつて奴隷の立場だった黒人を一つの視点に用いて描いているわけだ。
一方、核戦争で破壊された都市の地下には、被爆してミュータント化した人類が住んでいる。彼らの仲には猿と争うことに消極的なものもいるが、リーダーをはじめ戦争支持派が多い。猿のほうでも平穏を願うシーザーと開戦に前のめりなゴリラのアルドー将軍では政治路線が違う。錯綜した対立構図のなかで戦争は起きる。
最後の場面には、猿の歴史上の英雄となったシーザーの石像が映る。シリーズ第1作『猿の惑星』(1968年)のラストで砂浜に埋もれた自由の女神像が登場したのは有名だが、それと対を成す幕切れだ。
このシリーズは、再度の核ミサイル爆発(『続・猿の惑星』1970年)によって滅んだ未来の猿の惑星から知性あるチンパンジー夫婦がタイムスリップして現代の地球に現れ(『新・猿の惑星』1971年)、その子猿=シーザーが人間と猿の地位逆転のきっかけを作る(『猿の惑星・征服』1972年)設定だった。同じ破滅の道をたどらない可能世界があることを暗示して『最後の猿の惑星』(1973年)は終る。ふり出しに戻るか戻らないか、歴史の分岐の可能性を残すことでシリーズを完結させており、独特な余韻がある。


猿社会内部での人間に対する共存派と開戦派の対立。戦争と平和をめぐる父猿と子猿の認識の世代差。人間を反面教師として「猿は猿を殺さない」を掟にしたというのに、猿が猿を殺すことによって本当の人間並みに到達する皮肉な展開。これらの要素を、2010年代に作られた新シリーズ(『猿の惑星:創世記』2011年、『猿の惑星:新世紀』2014年、『猿の惑星:聖戦記』2017年)も受け継いでいた。
当たり前だが、特撮の面では新シリーズのほうが大幅に進化した。だが、それは素直な時系列で物語られており、タイムスリップというトリッキーな展開でシリーズを組み立てたオリジナル・シリーズのような複雑な余韻はない。この点は、オリジナル・シリーズに軍配を上げたい。