ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

宝塚花組『ポーの一族』

2月28日に東京宝塚劇場で観劇。
萩尾望都の同名コミックを原作としたバンパネラ=吸血鬼の一族の物語。脚本・演出の小池修一郎は、吸血鬼ドラキュラ、悪魔メフィストフェレス、妖精パックなど、過去にもたびたび超常的存在を主人公にした物語を手がけてきた。今回の演出では、過去の作品のなかでも特に、彼が日本版演出を担当した『エリザベート』が意識されていたように思う。
ポーの一族』では主人公のエドガーが、彼の分身的存在である影たちを率いて踊る場面がしばしば挿入される(他の主要人物に関しても自分の影たちとともに踊る場面がいくつかある)。これは、『エリザベート』においてトート=死神が、ある種の分身である黒天使たちと踊る演出を踏襲したものだろう。
トートの場合、はじめからこの世のものではないキャラクターとして登場し、ヒロインのエリザベートがトートとのキス=死に至るまでが語られた。一方、『ポーの一族』では、人間の少年だったエドガーが、意に反してバンパネラの一族に加えられてしまう苦悩が描かれる。『エリザベート』では語られなかった超常的存在になること/であることの苦悩を『ポーの一族』では描く。それが今回のテーマだと感じた。
エドガーは他人の首筋に口唇を寄せ、エナジーを吸いとることで相手をバンパネラにする。本作の場合、そのようにして同族に加える行為の艶めかしさが、恋愛要素を上回る。このため、エドガーがかつて恋したが成就しなかった男爵夫人に娘役トップの仙名彩世が配されたものの、あまり重い役回りではない。むしろ、エドガーが同族に加えたくなかったのにそうせざるをえなかった妹メリーベルの新人・華優希のほうが、大きな役になっていた。また、エドガーが妹に紹介し、後に同族に加える級友アランを男役二番手の柚香光が務めた。エドガーとメリーベルエドガーとアランという、それぞれ近親相姦、同性愛のニュアンスもある奇妙な三角関係の妖しさが、この舞台の魅力なのだといえる。
第一部で説明的なセリフが多すぎること、宝塚の舞台にしては歌の多い構成だが印象に残る強い楽曲が不足していることなど、不満はある。超常的な存在を扱った普通ではない話だから、説明したくなる気持ちはわかる。だが、ゴシックな内容なのだし、言葉ではなくもっと雰囲気で伝えて欲しかった。
その意味では、ポーの一族の背面と前面の銀橋に村人たちを立たせることによって、群衆がバンパネラたちを包囲し滅ぼそうとする場面を演出したのはよかった。装置や美術、人物配置といった絵面でドラマを伝える舞台ならではの魅力が感じられた。いくつかの場面転換などでは、小池演出ならではの空間感覚の冴えが感じられた。
とはいえ、なんだかんだいっても、エドガーを演じた明日海りおのこの世のものとは思えない美しさに尽きるのだ。『エリザベート』のトートもきれいだったが、今回もうっとりさせてもらった。あの姿さえ見られれば大満足だし、細かい粗など吹っ飛ぶ。舞台に立った時のシルエットが、ほかの演者とは全然違う。彼女がいたからこそ、成立した舞台化であった。
宝塚花組 ポーの一族 B2サイズポスター 明日海りおさん 柚香光さん 仙名彩世さん

エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書))

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書))

地球上どこでも人間は同じなのであれば、異なるふるまいをする彼らは人間ではないと平等主義に根差している差別。
多文化主義の立場から差異への権利を認め、それを移民管理の標準形にして、無意識のうちに差異に基づく不平等主義となる差別。
エマニュエル・トッドはフランスの政党に関し、前者の国民戦線を主観的に外国人恐怖症、後者の社会党を客観的に外国人恐怖症なのだと論じる。
彼は、移民の第一世代はともかく、その子世代の結婚では出身国の家族構造ではなく現地国の家族構造をとって同化していくとする。また、男女の地位は別にしてイスラム教の家族構造は意外に平等主義的だとプラスに評価する。ゆえに移民は脅威ではないというのだ。どこまで妥当な状況分析かは、わからないが……。


トッドは、フランスの脱キリスト教化、ゾンビ・カトリシズムを指摘しつつ、各地域の統計調査に基づいて議論を展開する。もともと国内にあった経済格差、宗教観や家族構造の差異をみつめ、イスラムユダヤとの摩擦を考察していく。
たまたま『猿の惑星』オリジナル・シリーズを再見したタイミングで読むことになった。フランスでは、イスラム教のムハンマドを下品に風刺した「シャルリ・エブド」への襲撃事件(2015年1月)で外国人恐怖症が高まったわけだ。一方、『猿の惑星』シリーズでは、神は自分に似せて猿を造ったとする猿の宗教が出てくるほか、核ミサイルを信仰して賛美歌を合唱する被爆子孫ミュータント集団など、キリスト教一神教の戯画が登場する。
また、猿−人間の差別を描くだけでなく、それぞれの種族内部にある差異や対立にも触れていた。猿は「猿は猿を殺さない」と自分たちの平等・平和を掲げつつ、人間を下層の存在と扱って狩る。一方、知性のある人間がいることを理解する猿もいるが、彼らもいわば「差異への権利」を認めつつ無意識に相手を奴隷扱いしてしまい、結果的に不平等な態度をとる。トッドが本書で語ったような構図が、前世紀に制作された『猿の惑星』シリーズに散見されるのだ。それだけ、起こりがちな差別構造をよくとらえていたわけである。
猿の惑星』第1作では人間のテイラーがチンパンジージーラにキスするが、ピエール・ブールの原作では両者は融和的になるものの猿側が人間のキスを拒否した。また、『猿の惑星』シリーズでは、猿社会はゴリラ、チンパンジー、オランウータンの3種族からなるものと描かれたが、そのなかに混血猿は見当たらなかったし、猿と人間の恋愛もありえなかった(喋れなくなり知能が猿並みに退化した未来人と現代からタイムスリップした人間の恋愛関係は描かれたが)。その意味では、トッドが移民問題における希望としてとらえている同化のテーマは、同シリーズにはなかった。
――てな感じで、『シャルリとは誰か?』を読んだことは、直前に鑑賞した『猿の惑星』シリーズを解釈するうえでも刺激になった。

『最後の猿の惑星』

猿が支配するようになった地球。青空学級のような形で人間が猿に文字を教える場面もあるが、基本的に人間は猿の召使状態となっている。チンパンジー、オランウータンはまだ人間と共存しようとしているが、ゴリラは人間など殺すべしと考えており、同じ猿のなかでも意識差がある。
チンパンジーで猿のリーダーであるシーザーと仲のよい人間が黒人と設定されていることだし、猿同士あるいは猿と人間の軋轢が人種差別のアナロジーであることは明らか。かつて奴隷だった猿が人間以上の地位を得て、それは正しいありかたになっているのか。かつて奴隷の立場だった黒人を一つの視点に用いて描いているわけだ。
一方、核戦争で破壊された都市の地下には、被爆してミュータント化した人類が住んでいる。彼らの仲には猿と争うことに消極的なものもいるが、リーダーをはじめ戦争支持派が多い。猿のほうでも平穏を願うシーザーと開戦に前のめりなゴリラのアルドー将軍では政治路線が違う。錯綜した対立構図のなかで戦争は起きる。
最後の場面には、猿の歴史上の英雄となったシーザーの石像が映る。シリーズ第1作『猿の惑星』(1968年)のラストで砂浜に埋もれた自由の女神像が登場したのは有名だが、それと対を成す幕切れだ。
このシリーズは、再度の核ミサイル爆発(『続・猿の惑星』1970年)によって滅んだ未来の猿の惑星から知性あるチンパンジー夫婦がタイムスリップして現代の地球に現れ(『新・猿の惑星』1971年)、その子猿=シーザーが人間と猿の地位逆転のきっかけを作る(『猿の惑星・征服』1972年)設定だった。同じ破滅の道をたどらない可能世界があることを暗示して『最後の猿の惑星』(1973年)は終る。ふり出しに戻るか戻らないか、歴史の分岐の可能性を残すことでシリーズを完結させており、独特な余韻がある。


猿社会内部での人間に対する共存派と開戦派の対立。戦争と平和をめぐる父猿と子猿の認識の世代差。人間を反面教師として「猿は猿を殺さない」を掟にしたというのに、猿が猿を殺すことによって本当の人間並みに到達する皮肉な展開。これらの要素を、2010年代に作られた新シリーズ(『猿の惑星:創世記』2011年、『猿の惑星:新世紀』2014年、『猿の惑星:聖戦記』2017年)も受け継いでいた。
当たり前だが、特撮の面では新シリーズのほうが大幅に進化した。だが、それは素直な時系列で物語られており、タイムスリップというトリッキーな展開でシリーズを組み立てたオリジナル・シリーズのような複雑な余韻はない。この点は、オリジナル・シリーズに軍配を上げたい。

映画『グレイテスト・ショーマン』

このミュージカル映画では身体、人種、階級をめぐる差別がモチーフになっている。“The Greatest Show”で壁が否定され(「And the walls can’t stop us」)、”This Is Me”で人それぞれの自己と多様性が言祝がれるあたり、ドナルド・トランプ的な思考に抗する態度がうかがえる。
また、『ラ・ラ・ランド』にみられた芸術における正統・伝統と商業性の衝突というテーマが、この映画にもみられる。
とはいえ、それらの問題は重く追及されているわけではない。差別問題がらみの作品としては、『ズートピア』の方がシリアスだろう。また、三角関係の描きかたもドロドロしたものではないし、人間ドラマとしてさほど深みはない。ストーリー展開自体は意外に淡泊だ。
しかし、歌、踊り、見世物性でグイグイ押していくエンタテインメントとしては面白い。十分楽しんだ。

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

『新・猿の惑星』『猿の惑星・征服』

70年代の『猿の惑星』シリーズをDVDで観直している。
『新・猿の惑星』では、未来の地球からやって来た知能あるチンパンジー夫婦が主人公。メスのジーラは人間女性たちの集会に招かれて男女同権を主張し、オスのコーネリアスは見物させられたボクシングについて「動物的だ」と感想を述べる。
猿の惑星・征服』ではチンパンジー夫婦の息子シーザーが、強権的な知事の側近であり奴隷を先祖に持つ黒人男性に対し、最初は失敗しても革命に何度も取り組まねば猿は自由になれないと話す。シーザーは、人間の人道主義を猿が受け継ぐと演説までする。
社会の実情と猿の進化という虚構を絡めて面白いニュアンスを醸し出している。

カレーは飲み物。本も流動体

デブタレがよく「カレーは飲み物」という。
あれと同じ感覚で「雑誌や新聞は流動体。書籍の多くもそう」だと思ってる。
昔、紙パルプの業界誌記者をしていたし、その前には出版社倉庫や古本屋でのバイトもしたから紙や本の流通過程は一通りみた。取次の配送返本、古紙回収、断裁、古紙パルプ・再生紙製造……。
紙の束がドロドロに溶かされてまた紙になる。印刷用紙に生まれ変われるものもあれば段ボールになるものもある。たとえ本が本のまま古本として値段がつけられていたとしても、いつまでも売れ残っていれば古紙扱いで引き取られもする。
古紙問屋のヤードで、自分の原稿の掲載誌が再生紙原料として製紙メーカーへと運び出される風景を見てから、自分は流動体に向けて文章を書いているだなと感じるようになった。
一冊でも多く、長く残っていてくれますように……とは思うけど。