ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』と渋谷知美『日本の童貞』と「ファウスト」

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)
〔「萌え」とキャラクター〕と副題のついた『〈美少女〉の現代史』は、おたくカルチャー的な意味での「美少女」の成立や、萌えの始まりをたどり直した新書本。著者は「新現実」VOL.2、3でもこのテーマに関連した文章を発表しているが、切り口は一貫している。男を、「傷つける性」「視線化する私」として、とらえる見方だ。

(前略)男性が女性に対する自分の暴力性に気づき、自らの「傷つける性」を自覚したとき、向きあうべき他者として目の前に女性が出現する。/しかし彼女の内面を理解しようとした結果、団塊の世代以降のある男性たちは「彼女をわかってあげられる僕」という新しい特権的な立場を発見し、そこを新たな居場所としていったのだ。

「おたくのロマンティシズムと転向――『視線化する私』の暴力の行方」 「新現実VOL.3」から

70年代に起こったこのような意識変化が、おたくの初期世代によって80年代には次のような方向に動く。

自分の視線の暴力性に気づき、そしてそれを忘却していくこと、つまり、「彼女」という他者と出会いながら、それを内面化し、自分にとって「攻略可能」なキャラクター化してしまうこと。

「同上」

こうして「美少女」に萌えるカルチャーが広まったというのが、ササキバラ史観の概要である。
興味深い切り口だ、とは思う。でも、時代推移のなかでのセクシュアリティの変化をいうのなら書き落としがあるだろう、という物足りなさも覚える。
〈美少女〉の現代史』で著者は、視線の男女差について書く。視線を強く意識する女性に比べ、男性は視線を浴びせる側だという古典的な立場だ。だが、ササキバラセクシュアリティの変化を指摘した70〜80年代は、「恋愛の自由市場」化が進んだ時期であり、そこでは男も女から選ばれる状態へ、見られる側へとシフトしていったはず。同書ではその点について、〔そのような女性の視線を受けとめて、ルックスに気をつかおうとする男性がいる一方で、美少女的な価値観の中にいる男は、自らキャラクターとはなりません。〕と軽く流している。でも、その種の、女性の視線に対して気をつかわない鈍感さが、かつてのおたくバッシングの理由になっていたのではなかったか。
そこで思い出したのが、昨年、ちょっと話題になった新書『日本の童貞』ISBN:4166603167。この本は童貞に関する世間的イメージの変遷を追った内容だが、ここで渋谷知美は80年代に「シロウト童貞」というカテゴリーが成立したことを指摘している。それ以前は、クロウト、シロウトの区別なく性行為をすれば童貞卒業と認知されたのに、「恋愛の自由市場」が広まったことで、互いが相手を選んだうえでのセックスは正しいが、金銭による性風俗での童貞喪失は逃げだとする価値観が広まったという。そして、「シロウト童貞」にはマザコン包茎、インポなどの病理的なレッテルが貼られ、女性からは童貞は見てわかるのだ、という言説が流布して彼らに視線の圧力がかかった、と。
この状態を渋谷は、「童貞の可視化」(!)と呼ぶ。そして、この本のカバーでは、〔女性からは「オタクっぽい」「不潔」と蔑まれ、医学者からは「包茎だから」「パーソナリティが未発達」と病人扱い。〕と、被差別者としての童貞を説明するその筆頭に「オタクっぽい」という罵倒語が置かれていたのだった。
渋谷は本文で記していた。

つまり、「神の目」を持つのは、いつも女性なのである。いや、正確にいえば、「神の目」を持つのはいつも女性であることになっている。

(「シロウト童貞」相手のパノプティコンかよ?)
ササキバラと渋谷では、それぞれが考える「視線の政治学」にどえらい違いがある。どうなってるんだろう?
私はなにも、かつてのおたくバッシングがリバイバルされることを望んでこんなことを記すのではない。おたく=セックスレス、の類のイメージづけが俗説にすぎないことは、今ではわりと理解されているし。ただ、『〈美少女〉の現代史』と『日本の童貞』には、そのほかにもちょっと気になる並行性が読めるのだ。
ササキバラは、70年代に男性が女性の「内面」を発見し、「傷つける性」である自分を自覚したのに伴って、男性向けコミックの女性像がオヤジ的な「お色気キャラクター」から「恋愛キャラクター」へ、「外面的キャラクター」から「内面的キャラクター」へ、絵柄や性格づけが変化したと述べる。この変化は、渋谷が『日本の童貞』で語ったところの「恋愛の自由市場」の成立や、相手がクロウトかシロウトか区別しない童貞概念から「シロウト童貞」という概念が分離される過程に呼応しているように思える。
ササキバラには見られる側としての男について、渋谷には「シロウト童貞」概念とおたくカルチャーの関係について、それぞれ本で語らなかったことを考察して披露してもらいたい。二人の対談企画なんかも、読んでみたいと思う。


『日本の童貞』には、「ソープに行け!」の決め科白で有名だった北方謙三の人生相談「試みの地平線」(「ホットドッグ・プレス」に連載されていた)に、触れるところがある。本の内容からして、まぁ当然だ。
で、「ファウスト」VOL.1の「佐藤友哉の人生・相談」、「同」VOL.2の「滝本竜彦のぐるぐる人生相談」は、いずれも北方の「ソープに行け!」をしきりと引き合いに出すことで、妙なおかしさを醸し出していた。北方は、「シロウト童貞」なんてカテゴリーは経験せずにすんだ、オヤジ世代である。一方、佐藤友哉滝本竜彦は、「シロウト童貞」概念確立後に、女の子の「内面」という恐い敵を相手にするのが当たり前になった世代なのだった。佐藤と滝本の「相談」コーナーが北方の引用で笑いに染まるのは、こうした世代ギャップが背景にあるからなんだなぁ、と思った。

関連雑記 http://d.hatena.ne.jp/ending/00000602


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