ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

映画版『69 sixty nine』

69 sixty nine [DVD]
映画版『69 sixty nine』を観てきた。単純に笑える娯楽青春映画になっていた。原作をちょこまか組み換えていても、イメージは崩していない。……というか、原作の場合、高校生の一人称だと思って読んでいくと、時おり“大人”になってからの村上龍が隙間から顔を覗かせ、論評めいた言葉をさしはさむのが気に入らなかった。小説では学校的権威に対する反抗劇が語られるくせに、その種の権威を作中で批判的に論評する「“大人”村上」な部分が、なにやら偉そうなのだ。その偉そうな感じは皮肉にも、自分の説教に酔う教師に近い、とすらいえる。それに対し映画版は、「“大人”村上」色を取っ払い、いかにも宮藤官九郎のシナリオらしくテキパキと話を交通整理したうえ、原作を凌駕するコミック感覚でまとめていた。映画版のほうが、はるかにできはいい。
映画化と連動して、原作は文庫新装版だけでなく、村上龍の時よりも若い芥川賞スター=金原ひとみのあとがきを付けた単行本まで出版された。今回の関連出版ラッシュでは、『69』は“青春小説のスタンダード”という位置づけが強調されている。『69』での村上の語り口はどうも好きになれないが、それさえ除けばあの原作はよくできている、と僕だって考えないでもない。
60年代的な青春、学生運動的な青春のありがちなイメージは、はやい話が「バリケードのなかの青春」だ。バリケード封鎖して立てこもった内部では祭りが永遠に続くかのような高揚感がありましたが、封鎖は破られて挫折を経験したのでした……みたいなセンチメンタリズム。そのもっとも悲惨な形が連合赤軍てことになる。
これに対し『69』は、バリ封とはいっても落書きして垂れ幕をしかけたあとは、立てこもらず逃げてしまう。彼らには、立てこもってまで主張したいなにかなどないんだから、バリ封の内側が空っぽなのは考えてみれば当たり前。いったん立てこもれば、あとは挫折するだけの袋小路しか待っていないのだし、賢い選択である。強制的に封鎖解除されたあとになってから、結局自分たちには中身がありませんでしたと気づいて落ち込む悲喜劇に比べれば、『69』のパロディ的やり逃げのほうが健康的だろう。なので、主人公たちが警察に捕まっても、「××砦落城」で落涙、みたいな湿っぽさはない。
これは、四方田犬彦が今年刊行した『ハイスクール1968』が、バリ封にあとから加わろうと食糧を取りに帰って戻ったらもう封鎖が解かれていた――という笑える展開だったことにも通じる部分がある。考えてみると、この時代を描いた青春小説で最初に売れた庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、東大安田講堂の籠城事件のあおりで試験が中止になった受験生が主人公だった。後の時代に育った僕からすると、「バリケードのなかの青春」を描いたものより、むしろ「バリケードのそとの青春」を題材にした話のほうが時代を描けているように感じられる。なぜだろう?
で、バリケードのなかで永遠に続きそうだった祝祭感覚、ってやつが学生運動がらみの青春もののキー・イメージになっている(このイメージを独特な形で肥大発展させたのが、押井守監督のアニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だったとよくいわれる)。これに対し『69』では、中身空っぽのバリ封との並列でロック・フェスティヴァルを描いたことが、“青春小説のスタンダード”に出世するポイントになっていたと考えられる。
主人公ケンが、音楽と演劇と映画の融合イベントとして夢想するロック・フェスは、今からみると原作でも映画でも“ただの文化祭”としか思えない。とはいえ、今につながるユース・カルチャーの原型が60年代にできたことを考えると、文化祭の原型もこの時期に成立したとするのが妥当なんだろうし、その意味では画期的だったのかも。よく知んないけど……。
重要なのは、ケンたちが学校の外で祭を成立させたことだ。学校の管理下とは別の空間で祝祭の時間を作り出した点では、バリケードのそとの『69』は、「バリケードのなかの青春」と共通だった。この別空間、別時間における祝祭というものが、青春ストーリーとしてはエヴァーグリーンに尊いわけで。
ベトナム戦争の最中だった69年と、イラク戦争が“継続中”の04年。映画版『69』がこの年に公開されたのは、立案制作のどこかの段階で、二つの時代のそんな対比を意識したためだろうが、李相日監督とシナリオのクドカンは、69年という特定の時代から離陸して、永遠の憧れとしての別枠の「祭」を描こうとしている。『69』という小説が、金原ひとみみたいな後続の若い世代にも受け入れられているとすれば、その無時間的な祝祭性の魅力によるのだし、映画はそれを拡大することでアピールしようとしている。そしてそれは、ほとんど成功した。


ただ、この映画には、原作者への微妙な批判的ニュアンスが感じられるシーンもある。一つは、[十七歳の少女達のからだが命令に従わされるのを見るのは不快だ。][何かを強制されている個人や集団を見ると、ただそれだけで、不快になるのだ。]など、「“大人”村上」がエッセイでよく使う論評風文体があからさまに出てしまった小説の地の文章を、クドカンが方言によるおかしな響きのセリフに改造して使ったこと。そうすることで、もとの文にあった“大人”の批評的ニュアンスは剥奪され、笑いに転化されている。
もう一つ、それ以上に重要なのは、冒頭のケンが米軍基地のフェンスを上ってなかに入ろうとするシーン。村上龍は基地の子どもたちはそんなことはしないと監督にクレームをつけたそうだが、ここでの李相日は確信犯にみえる。フェンスを上ろうとしたケンは、警官に見つかって逃げ出す。その一方、バリ封では学校のフェンスを破るのだ。ベトナム反戦を口にしながらも米軍基地と本気で敵対する展開にはならず、そのかわりの手頃な標的として学校が選ばれたと映画は暗示しているみたいにみえる。アメリカと本気で向き合えない日本人を、李相日はケンたちに象徴させているのだ。
――僕がそう考えてしまうのは、このフェンスのシーンが、村上龍自身の監督による映画版『限りなく透明に近いブルー』のラスト・シーンと呼応しているからだ。基地の街佐世保での高校時代を描いた『69』に対し、村上のデビュー作『ブルー』は(発表順は逆だが)その後日談。上京して、やはり基地の街である福生に住みついた若者が、米兵と交流を持ちながらドラッグやSEXに耽溺する姿を描いていた。その映画版『ブルー』は、主人公リュウが基地のフェンスと並行で走り出すシーンで終っていた。このシーンに関する原作者本人によるシナリオ、撮影日誌を読むと(『真昼の映像 真夜中の言葉』)、基地と並行に走り出す構図に村上がこだわっていたことがわかる。そして李相日はその場面を反復するかのごとく、『69』冒頭で基地のフェンスと並行に走って警官から逃げる主人公を撮影していたのだった。
米軍基地から遠ざかるのでも突入するのでもなく、並行に走る主人公。ここに、アメリカと日本の関係に対するなんらかの批評性が意図されていることは間違いないはずだが……。


そうそう。サウンドトラックが面白かった。劇中では、高校生バンドが洋楽のコピーを行う。その雰囲気にあわせるためか、クリームの〈サンシャイン・ラヴ〉、ジャニス・ジョプリンの〈サマータイム〉とも、日本人によるカヴァーで収録している。由紀さおりがヒットさせた〈夜明けのスキャット〉に関して、ザ・イエロー・モンキーのヴァージョンをも使ったのは、男声にすることでサイモン“ば”ガーファンクルの〈サウンド・オブ・サイレンス〉と似ていることを思い出させようとした密かなギャグだろう。そのほか、ストーンズ風、あるいはまるでツェッペリンなオリジナル(ほとんどパクリ)・インスト曲が流れ出す。ここらへん、「洋」を意識して背伸びしていた当時の国内カルチャーが、うさんくささ混じりでもエネルギッシュだったことを反映しているようで、愉快だった。サントラ盤は、定価で買うのはためらわれるけど、中古でなら買うかも。やってることが妙にマニアックだしね。

(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/00000608