ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

10年後の「読者」像

昨日、JAGAT技術フォーラム主催の『10年後の「読者」像』に出かけた。「本とコンピュータ」編集長の仲俣暁生をモデレーターに、永江朗近藤淳也はてな代表取締役)、深水英一郎(バーチャルクラスタ代表取締役)、江坂健(「Hotwired Japan」編集長)、東浩紀などが登場し、出版をめぐる状況や読書のありかたの変化について、講演やシンポジウムを行ったものである。
興味深い発言が、いろいろ聞けた。まず、永江朗による「ブックオフのしていることは、出版社の返品再出庫と変わらない」という指摘に、なるほどと思った。あの新古書店仕入れた本の汚れを落とすため、小口(本の背以外の三方)をみがき、カバーをアルコールで拭く。これは出版社が戻ってきた返品をもう一度出荷するために行っていることと同じだという。
確かに。僕が昔、学生時代にバイトしていた出版社の倉庫でも、小口を磨く作業をしていた。そこは参考書や問題集の専門出版社で、学習指導要領が改定されるまでの数年間は、同じ内容の本を再出荷可能だった。しかし、次年度に再出荷する際には、売れ残りをもう一度出していることをわからなくするため、古いカバーをとって新しいカバーに着せ替えていた。その手作業をしている時にバイトの同僚が、「女の身ぐるみ剥いでるみたいだなぁ、へへ」と下卑た冗談をいってたのを思い出した。
僕はひらめいた。そうだ。ブックオフも古いカバーの汚れをとるんじゃなくて、いっそ新しいブックオフ・オリジナルのカバーに着せ替えることにすればどうだろう? 竹とか人気のイラストレーターに依頼して、レタリングも凝ってさ。それも付加価値になるじゃん。――あさはかである。出版社の倉庫は、同じ本がまとめて大量に戻ってくる。だから、それぞれの本のためのタイトルを入れた新装カバーを用意することも可能だし意味がある。でも、ブックオフ仕入れはそうじゃない。同じ本が大量に入庫するんじゃなくて、いろんな本が入ってくるのである。書名・著者名入りで本個別の新装カバーなんか、とても作れやしない。採算考えてみろってこと。うーむ。やっぱり僕に商才はない。


シンポジウムでもう一つ面白かったのは、「日本の出版物は完成度が高すぎる」という東浩紀の発言。きれいなレイアウトとか文字表記の統一とかビジュアル化とか、職人技で凝る傾向があるけれど、そんなことよりも、たんにテキストを読みたいんだという欲望を持つ人は多いと東はいう。きれいすぎる状態に持っていくために大量投資するよりも、ただテキストを作って届けるというのなら、安価でスピーディに出来る。それこそ彼がやっているメルマガ「波状言論」の基本姿勢だとも説明していた。
僕はお仕事で、石油化学と紙の業界を取材してきたけれど、この種の無駄な完成度を求める日本人的体質に対する愚痴を、何度もメーカーから聞かされた。
「虫眼鏡でシートを見て、ほら、ここに穴があいてるといってクレームつけるんですよ。別に密閉しなけりゃならない用途じゃないから、その程度の微小なピンホールなんてなんでもないのに。しかも、虫眼鏡でなけりゃ発見できないんだから、当然肉眼では気づかないし、全然問題ないと思うんですけどねぇ」
その手の話は、プラスチックメーカーからも紙メーカーからも聞いた。そうしたきれいすぎる素材のうえに、きれいすぎるレイアウトが印刷されるわけですよ。


東に限らず、読む対象が本からテキストや、ケータイメールみたいな文字の短い連なりへと移っていること、ネットでも当初考えられた映像や音との連動よりも、ブログみたいなテキスト主体の展開が目立っていることは、複数のパネリストが話題にしていた。やはり、「読む」行為を今考察しようとすると、そのへんは避けて通れない。
そうしたテキスト群に関し、編集されるべきか自由にまかせるべきかは、パネリストによって考えかたに温度差があった。そして、セカンド・モデレーターを務めた松岡裕典(ヌーディ取締役)の前歴を配布資料で知って、思い出した。松岡は1978年に創刊された全面投稿雑誌「ポンプ」の設計に参加した人だという。「ポンプ」の編集長だった橘川幸夫は、渋谷陽一松村雄策岩谷宏とともに「ロッキング・オン」の創刊メンバーだった人。渋谷が編集長だった70年代の「ロッキング・オン」も、投稿主体で同人誌っぽさを残していたものだ。しかし、編集長として同じく投稿中心の姿勢をとりながらも、橘川と渋谷とでは考えかたが反対だった。橘川は、投稿は選別することなく全部掲載されるのが理想と文章で書いていたけれど、渋谷は投稿の選別は当たり前だし、雑誌は編集長の顔がみえるべきだと反論していたのだった。
無数のテキストがアップされている現在のネット状況は、雑誌形態では不可能だった橘川の理想を可能にしたといえる。それとともに、あの頃あった橘川×渋谷の考えかたの対立が、また違うレベルで反復されているわけだ。


そういえば、シンポジウムでは「個人向け編集者」の可能性も話題に上った。70年代後半に橘川は、1ページずつ書かれた記事がいっぱいあって、そこから一人一人がチョイスして自分向けの雑誌を作ったらどうか、という案を出していたが、これなんか「個人向け編集」の発想だった。振り返れば、彼の発想はいろいろ先見的だったと、今さらながら感心してしまう。
はっぴいえんど
がーん! その後、「ユリイカ」9月号 特集はっぴいえんどについて書いたのだが(400字で4枚分くらい)保存しないまま、しくじって、思いっきりまるごと消してしまった。今さら書き直す気力もない。ショックでかし。日本語ロック論争に関する増田聡の文章が面白かった。はっぴいえんど頭脳警察、キャロルにも言及している坪内祐三『一九七二』と今回の「ユリイカ」をあわせて読むと、はっぴいえんどが活動していた時代の奥行きがより理解しやすくなるのではないか、とだけ記しておく。
文章を消したショックのせいで、料理をする気力もなくした。今晩は冷凍ごはんをチンして、レトルトのハバネロカレーをかける。たいして辛くないじゃん、これ。辛党の俺は、全然へっちゃらだね。け。