(最終章とエピローグに触れるので、ネタバレに過敏な人は読まないこと)
7日に行われた出版記念ライブ&トークイベントで、吉田アミ本人もネタにしていたが、AMAZONの表示では著者の名前と並んで、装画のタナカカツキだけでなく、編集の郡淳一郎、木村カナの名まで表示されている。で、吉田はイベントで、前「ユリイカ」編集長の郡が、この本を作るために会社をやめたという話までしていた。また木村は、『サマースプリング』が自身にとって初の編集担当本であることをネット上に記している。そういう点では、編集者の目立つ本である。
とはいえ、郡や木村以上に“編集者”だったのは、吉田アミだろう。本のあとがきによると、中学時代のことを書いたこの自伝小説的な文章を、彼女は10年もいじり続けてきたという。その結果、スパッ、スパッと短めに切り分けた文章のブロックを並べる形で、本はできあがっている。
ここに書かれているのは、同居しているハハ、ソボの狂気に巻き込まれるアタシの意識や行動だ。中学生の彼女は、どちらも息苦しい場所である“家−学校”の圏域から抜け出すことができない。強弱の波はあるにしても、意識や行動がループしてしまい切れ目がない、このうんざりする時間が途切れてくれない――という狂気の日々。
そんな状態、内容とは正反対のスパッ、スパッと小気味よく裁断した構成で読ませていること。こうした編集の手つきに、『サマースプリング』の不思議なポップさの要因はあるのだろう。
面白く読んだ。
この本の結末は、二重の意味を帯びていると思う。
第五章「声の誕生」には、こんな文章が出てくる。アタシがハハに階段から落とされ、ひとしきり泣いた後のことだ。
苦しくて息ができないのに泣きしゃっくりは止まらない。
そのうち喉の奥をひゅーひゅーと掠れた空気が抜けていき、小さなハウリングのような不思議なノイズが出た。機械のような虫のような鳥のような。高音の、声にならない叫び。
2003年にアルスエレクトロニカ・デジタル・ミュージック部門ゴールデンニカを受賞した前衛家・吉田アミは、本のカヴァーでは「声からあらゆる意味と感情を剥ぎとり音そのものとする、超高音ハウリング・ヴォイス奏法の第一人者」と紹介されている。したがって、上の引用部分は、ハウリング・ヴォイス誕生の由来を描いたものと読める。
しかし、一方でエピローグは、こんな風にしめくくられているのだ。
『私は、生きたい。』
体の内から〈声〉が言った。
ここの部分の〈声〉は、アタシに対し「意味と感情」のこめられた明確なメッセージを発していないか。であるなら、「意味と感情」を剥ぎとったハウリング・ヴォイスとは違う性格のものではないか。――そんな疑問がわく。
このため、エピローグにおける「声の誕生」の光景は、ハウリング・ヴォイスの由来とはまた別の文脈にあるようにみえる。吉田アミにとって初の単著であるし、前衛家でも人気ブロガーでもない、新たな文筆家としての誕生をエピローグの〈声〉が告げている。そう読めるのだ。
『サマースプリング』では、ハウリング・ヴォイスの前衛家、あるいは新たな文筆家という、吉田アミの2つの姿が、中学時代の彼女の上で交差している。この独特な本を発表した後に、彼女がどんな文筆を行っていくのか、とても楽しみ。