ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『サウンド・オブ・ミュージック』、ビョーク

ブロードウェイ版『サウンド・オブ・ミュージック』の来日公演が来年1月に行われることを、最近になって知った。ちょっと気になっている。 僕はこれの映画版がけっこう好きで、何度か見直しているのだ。一回ぐらいは、ミュージカル版の生の舞台を観てみたい。しばらく前にはCMで、挿入曲の1つ〈もうすぐ17才〉が頻繁に流れていたし、あるいは無意識のうちに“『サウンド・オブ・ミュージック』欲”が高まっていたのかもしれない。

サウンド・オブ・ミュージック [DVD]

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  • 発売日: 2004/03/19
  • メディア: DVD

ダンサー・イン・ザ・ダーク

いい機会だから、時期はずれではあるけれど、これまで活字にしそこなってきた『サウンド・オブ・ミュージック』と『ダンサー・イン・ザ・ダークASIN:B00005L97N の関係性についてメモしておきたい。
ビョーク主演の映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、ミュージカル好きのヒロイン=セルマが本人の視力低下、息子の病気という不幸に見舞われたあげく死刑にされてしまう、なんとも過酷なストーリーだった。その作中では、工員有志たちが集まって『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台稽古をするシーンがあり、映画本編はビョークが〈私のお気に入り〉を歌うシーンから始まっていた。ビョークは『サウンド・オブ・ミュージック』の音楽を担当したロジャース/ハマースタインの曲を《Gling-Glo》でカヴァーした過去もあったから、セルマ役はピッタリだったのだね。
一方、『サウンド・オブ・ミュージック』では、母親を失った大佐一家で働き始めた若い家庭教師マリア(映画版主演ジュリー・アンドリュース)が、雷雨におびえる子どもたちに〈私のお気に入り〉を歌ってあげることで彼らと打ち解ける展開になっている。そして、一度は一家から離れたマリアが戻ってくるのを願う子どもたちが再び〈私のお気に入り〉を歌うと、再会が果たされた。つまり、映画のなかでこの曲は、状況を好転させる一種のおまじないのようなものだった。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも、〈私のお気に入り〉は2回歌われる。死刑の近づく独房でセルマが恐怖を払おうと、この曲を口ずさむのだ。そうすると執行延期の知らせが届く。まるで、状況好転のおまじないが効いたみたいに。ところが、一度は延期された死刑も、結局最終的に執行されることになる。
だから、多幸的な『サウンド・オブ・ミュージック』を引用することで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はシリアスさを強調した――ととらえている人が多い。2作は対照的な位置にあると判断しているのだ。なにしろ、『サウンド・オブ・ミュージック』といえば、アコギを抱えた若い女がまわりに子どもを集めてにこやかに〈ド・レ・ミの歌〉を合唱――という楽天的な音楽賛歌のイメージが流布している。勘違いするのも無理はない。
しかし、『サウンド・オブ・ミュージック』は、第二次大戦下の物語である。マリアが後妻として嫁いだ大佐は祖国愛の人であり、オーストリア併合を進めるナチに協力しない決心を固める。このため一家は逃亡せざるをえなくなるが、潜伏先でまだ幼い末娘はマリアに尋ねる。「歌えば恐くなくなる?」と。追手はすでに近づいており、マリアは娘をだまらせるしかない。ここで末娘が歌いたいと思い、マリアが歌わせなかった歌が〈私のお気に入り〉であっただろうことは、それまでのストーリーが暗示している。歌による3度目のおまじないは、かなわなかったのだ。この場面では、はっきりと音楽の無力、音楽の敗北が描かれている。
一家は殺されずにすむが、高い山を登って逃げていく彼らを、遠くから空撮して映画は終る。周囲に誰もいない孤立無援さを定着したラストシーン。実話をモデルにしたストーリーなだけに、楽観的な方向に持っていこうとするミュージカル映画のなかにも、戦時下のシビアさが映り込んだということだろう。
このようにしてみると、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は『サウンド・オブ・ミュージック』と反対の方向性にあるわけではなく、むしろ『サウンド〜』にあったテーマをより徹底した映画だと考えられるはず。音楽は現実に対し敗北するだろうが、それでも個人の尊厳を支えるものでありうるのではないか? ――堅いいいかたをすればそのようなテーマだ。
ちなみに、僕はジュリー・アンドリュースが歌う〈私のお気に入り〉ではなく、ジョン・コルトレーンが演奏したカヴァー版〈マイ・フェイヴァリット・シングス〉ASIN:B000002I53 を先に聞いたのだった。どんどん音楽性を変化させフリー・ジャズに突入していったこのサックスの巨匠は、繰り返しこの曲を演奏し、何ヴァージョンも録音を残した。それらをいろいろ聞くうちに、原曲を聞きたくなって『サウンド・オブ・ミュージック』のヴィデオを借りた。僕は僕なりに、こうして〈私のお気に入り=マイ・フェイヴァリット・シングス〉の奥行きを感じるようになったけれど、コルトレーンはなにを思ってこの曲に執着したんだろう……。

ビョーク《メダラ》

最新作《メダラ》ASIN:B0002ADEP6については、マニアックすぎる、という感想がけっこう多いみたい。確かに、せっかく映画『ダンサー〜』で音楽ファン以外への知名度が上がったのに、その後出したアルバムはエレクトロニカ寄りだった前作《ヴェスパタイン》、バック・トラックのほとんどを声で作り上げた本作《メダラ》と、エクスペリメンタルな感触が強まっている。一般性という意味では、《ポスト》の頃が一番とっつきやすかったかもしれない。けれど、僕はここ数作で聞ける繊細な音色の積み重ねぶりが好きだ。
本人も認める通りプライヴェートな作品だった《ヴェスパタイン》発表に伴うライヴを、ビョークは大人数を使って行った。このことに関し彼女は、「オーケストラや合唱団ならば一人一人の個性が消えるから、私のプライヴェートな曲を演奏するのにふさわしい」という主旨の発言をしていた。《メダラ》も基本的には、その発想の延長線上にある。新作には多くの人の声が収録されているものの、彼ら彼女らに“個性”は求められていない。むしろ、大小多くの生命を抱えた森が息づいているような、アニミズム的なものとして声たちは鳴らされている。
動物や植物など自然一般に霊魂や精霊の存在を感じとるアニミズムは、その一つ一つに“個性”を認めようとするものではない。考えてみれば、《ヴェスパタイン》以前からビョークの音楽やPVにはその種の発想が充満しており、それは機械類までをも含めたアニミズムであった。
生命体、小動物的、珍獣、妖精……。自分が動物になったり機械になったりするイメージを多用してきたビョークは、この種の非人間的な形容をさんざん与えられてきたが、彼女のアニミズム的な感受性を考えれば、逆にファンのほうが彼女を取り囲む“個性”なき生命のざわめきととらえられていたのかもしれない。この最新作から9.11後を憂うビョークの感覚を読み取るならば、“人間的”な“個性”(エゴと呼んだほうがいいか)の暴走に結びつくかっちりした宗教(キリスト教イスラム教etc)以前のアニミズムを対置することが裏テーマだったともいえるだろう。
どっちにしろ“個性”の檻からの解放を感じさせる点で、ビョークサウンドは相変わらず心地いい。