昨夜、NHK「プロジェクトX」が、宝塚歌劇『ベルサイユのばら』(池田理代子原作)の初演の模様について取り上げていた。1974年のことである。
当然、オープニングでは、宝塚の舞台を映しながら、中島みゆき〈地上の星〉が流れた。男役娘役が衣裳を夢々しく整えた宝塚の人工性と、“女の生々しい情念、聞かせます”的なみゆきの歌唱では落差がある。だから、この映像と歌の組み合わせには、ちょっとめまいがした。
番組自体は、70年代に客足が遠のいていた宝塚が初めてマンガの舞台化に挑み、名優長谷川一夫の指導を得ていかにサクセスしたかを追ったもの。
当時不入りに陥っていた原因として、番組ではテレビとの競合を指摘し、ブラウン管の中で越路吹雪が歌っているのを映す演出をしていた。考えてみると、元タカラジェンヌの越路が退団後に聞かせた歌は、中島みゆきの先祖みたいなところがあった。メロディを美しく“歌う”よりも芝居のように物語を“語る”という、浄瑠璃の伝統を引き継いだみたいな感覚。宝塚の人工性を脱ぎ捨てた越路は、逆に“生々しい情念”の演者としての地位を確立した――という図式である。
『ベルばら』のストーリーではまず男装の麗人オスカルが有名なわけで、一般的にはいかにも男役のいる宝塚向きの演目だと思われている。でも、番組では触れられていなかったけれど、『ベルばら』には宝塚的世界を危うくする要素が含まれている。
近衛兵として男に混じり働いていたオスカルは、「今宵一夜」の場面でアンドレに対し女である自分をさらけ出す。男として振舞ってきた自分が実際には女であることを、内省せざるをえなくなるのがオスカルである。それは、宝塚の男役とはなにか、と自己言及するのに等しい。人工性に隠された“生々しさ”が、隙間から覗く演目なのである。『ベルばら』は、宝塚にとって“メタ”な作品ってこと。
一方、宝塚には、男役を男であるかのように愛するファンが存在するわけで、彼女たちは男役が“女であること”に崩れ落ちる瞬間は見たくなかったりする。したがって、何種か作られた宝塚の脚本では、オスカルよりアンドレに比重を置いたヴァージョンのほうがむしろポピュラーになったのだった。
僕は昔、榛名由梨オスカルの舞台をテレビ中継で見た記憶がある。
そして、平成になっての再演のなかから涼風真世オスカル&天海祐希アンドレ版を映像で見たのをきっかけに、一時期、宝塚にハマった。90年代のことである。
振り返ってみると、“宝塚についての宝塚”的演目だった『ベルばら』は、門外漢である男の僕にとっては、ほどよい解説みたいな働きをしたのだと思う。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050911)
ちなみにこの番組は、今日の深夜、再放送される。