ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

noteへの過去原稿アップ

noteにアップしてきた過去原稿がけっこうたまってきたから、これまでの分の一覧を作った。

  • 最近自分が書いたもの
    • 今村昌弘インタビュー、コラム「夜明けの紅い音楽箱」(とりあげたのは村上暢『ホテル・カリフォルニアの殺人』 → 「ジャーロ」NO.63
    • 伊兼源太郎『地検のS』のレビュー → 「ハヤカワミステリマガジン」5月号

ジャーロ No. 63ミステリマガジン 2018年 05 月号 [雑誌]

第71回 日本推理作家協会賞 候補作決定

【長編および連作短編集部門】
いくさの底     古処誠二(KADOKAWA)
インフルエンス   近藤史恵文藝春秋
Ank : a mirroring ape 佐藤究(講談社
かがみの狐城    辻村深月ポプラ社
冬雷        遠田潤子(東京創元社


【短編部門】
ただ、運が悪かっただけ 芦沢央(オール讀物2017年11月号掲載)
火事と標本       櫻田智也(東京創元社『サーチライトと誘蛾灯』収録)
理由(わけ)      柴田よしき(文藝春秋『アンソロジー 隠す』収録)
偽りの春        降田天(野性時代2017年8月号掲載)
階段室の女王      増田忠則(双葉社『三つの悪夢と階段室の女王』収録)


【評論・研究部門】
ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド 浅木原忍(論創社
アガサ・クリスティー大英帝国 名作ミステリと「観光」の時代 東秀紀(筑摩書房
本格ミステリ戯作三昧 贋作と評論で描く本格ミステリ十五の魅力 飯城勇三(南雲堂)
乱歩と正史 人はなぜ死の夢を見るのか 内田隆三講談社
昭和の翻訳出版事件簿 宮田昇創元社


私は、評論・研究部門の予選委員の一人でした。

『東京自叙伝』と石原慎太郎、安倍晋三

同号掲載の様々な論考のなかで面白かったのは、石川義正「亡霊の言説」だった。彼は、石原慎太郎田中角栄の一人称で書いた(霊言!)小説『天才』をとりあげ、[著者は都知事でもあった自身の志向をそこに投影させているのだろう。むしろ著者は自身が田中角栄の転生であると暗にほのめかしてさえいるのかもしれない]と書く。
そのうえで石川は、奥泉光の長編小説『東京自叙伝』を引きあいに出す。同作は東京の地霊である「私」が、幕末期から太平洋戦争などを通過し、東日本大震災原発事故を経た現在まで、時代ごとに五人の男女に次々と憑依転生してきたことを語る内容である。地霊の性格は端的にいって無責任であり、作者の奥泉はそのように東京は、日本人は無責任にやってきたと指弾する。
そうしたストーリーを紹介した石川は、[『天才』の「俺」もまた『東京自叙伝』中の一篇として「田中角栄、アレは私です」と名のりでるのに相応しい人物である。ただし「俺」は反省しない]と皮肉る。角栄=「俺」=石原慎太郎は反省しないというわけだ。

東京自叙伝 (集英社文庫)

東京自叙伝 (集英社文庫)

『東京自叙伝』は昨年5月に文庫化された。原武史による巻末解説は、地霊=「私」が信奉する思想は「なるようにしかならぬ」だと指摘する。これを読んで思い出したのは、第一次安倍晋三内閣で久間章生防衛大臣が、広島、長崎の原爆投下について、「あれで戦争が終わったという整理の中で、しょうがないと思う」と失言したのが批判され、辞任したこと。原武史が『東京自叙伝』から抽出した「なるようにしかならない」は、久間発言の「しょうがない」と同質のものととらえていいだろう。
興味深いのは、「なるようにしかならない」を軸に解説を書き進めた原が、「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉に議論をつなげたことだ。それは、政治学者・丸山真男が日本の歴史意識の「古層」をなした思考の枠組みとして定式化した言葉である。原は、それが地霊の無責任をよく表現していると考えたのだ。

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

この言葉は、清水真人のこの新書にも登場する。同書は、かつてのコンセンサス型デモクラシーから多数決型デモクラシーへという日本政治の変化を追った内容である。著者の清水は、丸山真男が注目した「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉に関する次のような評言も紹介している。

苅部直『維新革命への道』はこれを「それぞれの時代における生成の結果を、動かしがたい現実として肯定し、無責任に追随してゆく意識につながる」と整理している。

『平成デモクラシー史』でこの部分の次の行には、[「つぎつぎになりゆくいきほひ」を地で行くような安倍の短期志向の政権運営。]と書きとめられている。清水は、「小刻み解散」を繰り返して支持をつないできた第二次安倍政権を状況への過剰適応とみており、それが「つぎつぎになりゆくいきほひ」だというのである。
石原慎太郎と同様に安倍晋三もまた、東京の無責任な地霊が憑依転生した一人だったのだろう。ただ、安倍の今後は、けっこう怪しくなってきたけれども……。

『すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録』の篠山紀信

すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~17年>

すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~17年>

建設専門誌の「日経コンストラクション」「日経アーキテクチュア」が追い続けてきた事故原発廃炉作業の記録をまとめた本。篠山紀信が撮影した福島第1原発と帰還困難区域(福島県双葉町)の写真が多く盛りこまれている。
篠山は、「激写」シリーズのほか、ヘア解禁と話題になった樋口可南子『Water Fruit』、宮沢りえの『Santa Fe』など、ヌード写真でたびたび世間の注目を集めてきた。だが、並行して歌舞伎役者や建築物など幅広い被写体を選んできた写真家でもあり、基本的にはなんでも撮影してしまいたい人なのだと思う。
今回の『すごい廃炉』の写真を見て連想したのは、営業時間終了後の東京ディズニーランド/シーでミッキーマウス&ミニーマウスなどキャラクターたちを撮影した『篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC』だった。観客(ディズニー風にいえばゲスト)たちが見ることのできない隠された姿を撮ったという意味で、斎藤環は『MAGIC』の写真を[「TDL」の「ヘアヌード」]とレトリカルに評していた。
http://d.hatena.ne.jp/ending/20090425
一方、『すごい廃炉』には、放射性物質による汚染をコントロールして食い止めようとする作業の現場が写されている。普通の人は見ることのできない場所だ。先の斎藤環の表現にならえば、『すごい廃炉』の写真は原発の「ヘアヌード」だし、そうとらえれば篠山の仕事としての一貫性が感じられる。しかもその「ヌード」写真は事故で“死体”と化した原発をなんとかエンバーミングしようと悪戦苦闘している光景を撮ったもの。遺体の保存だけでなく感染症防止も意図しているのがエンバーミングなのだから、この比喩は成り立つ。
秘所をとらえた生々しい写真。

篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC

篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC

宝塚花組『ポーの一族』

2月28日に東京宝塚劇場で観劇。
萩尾望都の同名コミックを原作としたバンパネラ=吸血鬼の一族の物語。脚本・演出の小池修一郎は、吸血鬼ドラキュラ、悪魔メフィストフェレス、妖精パックなど、過去にもたびたび超常的存在を主人公にした物語を手がけてきた。今回の演出では、過去の作品のなかでも特に、彼が日本版演出を担当した『エリザベート』が意識されていたように思う。
ポーの一族』では主人公のエドガーが、彼の分身的存在である影たちを率いて踊る場面がしばしば挿入される(他の主要人物に関しても自分の影たちとともに踊る場面がいくつかある)。これは、『エリザベート』においてトート=死神が、ある種の分身である黒天使たちと踊る演出を踏襲したものだろう。
トートの場合、はじめからこの世のものではないキャラクターとして登場し、ヒロインのエリザベートがトートとのキス=死に至るまでが語られた。一方、『ポーの一族』では、人間の少年だったエドガーが、意に反してバンパネラの一族に加えられてしまう苦悩が描かれる。『エリザベート』では語られなかった超常的存在になること/であることの苦悩を『ポーの一族』では描く。それが今回のテーマだと感じた。
エドガーは他人の首筋に口唇を寄せ、エナジーを吸いとることで相手をバンパネラにする。本作の場合、そのようにして同族に加える行為の艶めかしさが、恋愛要素を上回る。このため、エドガーがかつて恋したが成就しなかった男爵夫人に娘役トップの仙名彩世が配されたものの、あまり重い役回りではない。むしろ、エドガーが同族に加えたくなかったのにそうせざるをえなかった妹メリーベルの新人・華優希のほうが、大きな役になっていた。また、エドガーが妹に紹介し、後に同族に加える級友アランを男役二番手の柚香光が務めた。エドガーとメリーベルエドガーとアランという、それぞれ近親相姦、同性愛のニュアンスもある奇妙な三角関係の妖しさが、この舞台の魅力なのだといえる。
第一部で説明的なセリフが多すぎること、宝塚の舞台にしては歌の多い構成だが印象に残る強い楽曲が不足していることなど、不満はある。超常的な存在を扱った普通ではない話だから、説明したくなる気持ちはわかる。だが、ゴシックな内容なのだし、言葉ではなくもっと雰囲気で伝えて欲しかった。
その意味では、ポーの一族の背面と前面の銀橋に村人たちを立たせることによって、群衆がバンパネラたちを包囲し滅ぼそうとする場面を演出したのはよかった。装置や美術、人物配置といった絵面でドラマを伝える舞台ならではの魅力が感じられた。いくつかの場面転換などでは、小池演出ならではの空間感覚の冴えが感じられた。
とはいえ、なんだかんだいっても、エドガーを演じた明日海りおのこの世のものとは思えない美しさに尽きるのだ。『エリザベート』のトートもきれいだったが、今回もうっとりさせてもらった。あの姿さえ見られれば大満足だし、細かい粗など吹っ飛ぶ。舞台に立った時のシルエットが、ほかの演者とは全然違う。彼女がいたからこそ、成立した舞台化であった。
宝塚花組 ポーの一族 B2サイズポスター 明日海りおさん 柚香光さん 仙名彩世さん

エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書))

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書))

地球上どこでも人間は同じなのであれば、異なるふるまいをする彼らは人間ではないと平等主義に根差している差別。
多文化主義の立場から差異への権利を認め、それを移民管理の標準形にして、無意識のうちに差異に基づく不平等主義となる差別。
エマニュエル・トッドはフランスの政党に関し、前者の国民戦線を主観的に外国人恐怖症、後者の社会党を客観的に外国人恐怖症なのだと論じる。
彼は、移民の第一世代はともかく、その子世代の結婚では出身国の家族構造ではなく現地国の家族構造をとって同化していくとする。また、男女の地位は別にしてイスラム教の家族構造は意外に平等主義的だとプラスに評価する。ゆえに移民は脅威ではないというのだ。どこまで妥当な状況分析かは、わからないが……。


トッドは、フランスの脱キリスト教化、ゾンビ・カトリシズムを指摘しつつ、各地域の統計調査に基づいて議論を展開する。もともと国内にあった経済格差、宗教観や家族構造の差異をみつめ、イスラムユダヤとの摩擦を考察していく。
たまたま『猿の惑星』オリジナル・シリーズを再見したタイミングで読むことになった。フランスでは、イスラム教のムハンマドを下品に風刺した「シャルリ・エブド」への襲撃事件(2015年1月)で外国人恐怖症が高まったわけだ。一方、『猿の惑星』シリーズでは、神は自分に似せて猿を造ったとする猿の宗教が出てくるほか、核ミサイルを信仰して賛美歌を合唱する被爆子孫ミュータント集団など、キリスト教一神教の戯画が登場する。
また、猿−人間の差別を描くだけでなく、それぞれの種族内部にある差異や対立にも触れていた。猿は「猿は猿を殺さない」と自分たちの平等・平和を掲げつつ、人間を下層の存在と扱って狩る。一方、知性のある人間がいることを理解する猿もいるが、彼らもいわば「差異への権利」を認めつつ無意識に相手を奴隷扱いしてしまい、結果的に不平等な態度をとる。トッドが本書で語ったような構図が、前世紀に制作された『猿の惑星』シリーズに散見されるのだ。それだけ、起こりがちな差別構造をよくとらえていたわけである。
猿の惑星』第1作では人間のテイラーがチンパンジージーラにキスするが、ピエール・ブールの原作では両者は融和的になるものの猿側が人間のキスを拒否した。また、『猿の惑星』シリーズでは、猿社会はゴリラ、チンパンジー、オランウータンの3種族からなるものと描かれたが、そのなかに混血猿は見当たらなかったし、猿と人間の恋愛もありえなかった(喋れなくなり知能が猿並みに退化した未来人と現代からタイムスリップした人間の恋愛関係は描かれたが)。その意味では、トッドが移民問題における希望としてとらえている同化のテーマは、同シリーズにはなかった。
――てな感じで、『シャルリとは誰か?』を読んだことは、直前に鑑賞した『猿の惑星』シリーズを解釈するうえでも刺激になった。