ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

高原英理『ゴシックハート』

ゴシックハート
ゴスロリやら球体関節人形やら、暗黒っぽいものの小ブームはあるのだから、こんなゴシック・カルチャー周遊本が登場するのも当然だろう。人外、残酷、身体、猟奇、異形、両性具有、人形、廃墟と終末など、各章ごとにテーマが設定され、作者の好みに応じていろんな作品が召喚される。趣味的エッセイとしては、なかなか楽しい。
でも、この本のゴシック観は、ちょっと古典的すぎでは。現実社会に抵抗するものとしてのゴシック。高原は、そんな風にゴシックをカウンター・カルチャーの一種と見なし、パンクと並べて語る。明るく安定した現実社会に反する恐怖、混沌、闇、過剰、傷、野蛮、死などなどの集合として、ゴシックをとらえる。でも、安定への否であるはずのゴシックが、様式美として安定してしまう皮肉さというのもあるわけで、それがゴシック的仰々しさへの揶揄を招き寄せる。本書もそれを免れてはいない。著者は反抗的な態度で語っているのに、現実社会の“安定性”、様式美の“安定性”を前提にした書き方なので、逆に保守的な印象を残してしまう。
また、1959年生まれの評論家であるからには、70〜80年代にかけてのスプラッター映画ブーム、スティーヴン・キングを筆頭とするモダン・ホラー・ブームなども浴びてきたはず。これらのブームが盛り上がった際、現代社会では光と闇、神と悪魔の相克劇は失効し、恐怖表現は即物的解体描写に終始するだけになった――なんてことがさんざん議論されたが、『ゴシックハート』は、まるでその手の話題が過去になかったかのように素通りしていて物足りない。いまだに光と影がしっかり対立しているかのごとき世界観で書かれている。スプラッターの流行期があったことなどを考えれば、今のゴシック、ゴスは、ある種の挫折、無効化、形骸化を経てなお残ってしまったもの――という独特のしぶとさがあるはずで、僕はそのへんの分析が読みたい。


ここからは余談。本書でも取り上げられている押井守監督の『攻殻機動隊』、あるいは『イノセンス』を小谷真理はテクノ・ゴシックと呼んでいたが、『攻殻』がテクノ・オリエンタリズムと称されたこともあったし、『イノセンス』にチャイニーズ・ゴシックとレッテルを貼った人もいた。
振り返ってみると、映画『ブレードランナー』やウィリアム・ギブスンニューロマンサーISBN:415010672X、SF作品にアジア・イメージが多く見られ始めた80年代は、スプラッターモダン・ホラーの隆盛期と交差していた。ついでに日本ではその頃、ラテン・アメリカ文学ブームもあったではないか。中世ヨーロッパ風の正統的(?)ゴシック・イメージが弱体化したのを補完するために、異世界幻想の材料としてアジアやラテン・アメリカの要素が重宝される一方、サイバー・スペースもゴス的想像力を宿らせるための新たな領土になった。そうして、テクノ・ゴシック、テクノ・オリエンタリズムマジック・リアリズム(南米的土着性とシュルレアリズムの合体)が並列していた記憶があるのだけれど。この並列ぶりから、なにか考えられないかしら。


『ゴシックハート』読了後、1958年生まれ大塚英志の『物語消滅論ISBN:4047041793。ゴシックを反・現実社会の場としてある種、聖域化する高原に比べ、いまやファンタジーも要素ごとに分解されコンピュータでいくらでも物語生成可能だと見限ったところから出発する大塚は、ラジカルではあるのだろう。
でも、『物語消滅論』はひどすぎる。本の3分の2は過去の著作の繰り返しだし、メインの〔第三章 イデオロギー化する「物語」〕にしたって、結局、お手軽な語り下ろし本にすぎないから、ノリで話が流れてしまう。代表作『物語消費論』の続編というのなら、もっとまともに、自分で書いてほしかった。