ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

宝塚とポップ・アート

一昨日、そごう横浜で『夢みるタカラヅカ展〜宝塚歌劇に魅了された芸術家、そして時代〜』を鑑賞したあと、Bunkamuraザ・ミュージアムで『ベラルド・コレクション 流行するポップ・アート』展を見た。どういうはしごなんだ? 馬鹿者である。なんだか、疲れてしまった。
前者は今年90周年を迎えた宝塚歌劇を回顧するもの。フィナーレに男役トップスターが大階段で背負って降りてくるあの羽根の衣裳なんかを間近に見ると、やはりミーハー(死語)としてはオオッと血が騒いでしまう。僕的には、写真でしか知らなかった名作古典「華麗なる千拍子」のフィルムを見られたのが、とても興味深かった。
この展覧会は、衣裳のデザイン画やポスターなど、宝塚に関連する品々を並べるだけではなかった。西山美なコ、やなぎみわ森村泰昌蜷川実花横尾忠則という現代アーティスト5人による宝塚テーマの作品も展示したのが、一つの売りになっていた。
例によってコスプレ写真を出した森村、真矢みき(また細かい仕事引き受けてるよ。よく働くなぁ)と柴吹淳を使って架空雑誌「Jienne」を作った蜷川、観光地によくある顔だけ繰りぬかれた撮影用絵看板のヅカ版を立てた西山、そして公演ポスターを手がけた横尾などなど、それぞれ遊び心は感じられた。……られたのだが、宝塚という芸能そのもののファンである来場者たちは、そんな“アート”や“作品”は足早かつ冷淡に通りすぎ、本物の宝塚グッズに熱い視線を注ぐのであった。無数のしゃれこうべを踏みしめてタカラジェンヌが踊っている――などという、横尾のとんでもなく悪趣味な絵を展示させたあたり、劇団側の英断が感じられる展覧会だったんだけどな。ファンのみなさん、も少し心を広く鑑賞できませんか?
――と残念がりつつ、『流行するポップ・アート』展に移動した。こっちのほうは、「レディメイド」「アメリカ」「ヨーロッパ」「フォトリアリズム」と4つのゾーンを設け、このジャンルを解説する流れになっていた。べつに突出した作品が展示されていたわけではないが、アメリカで発達した大衆消費社会への美術による批評――そのようなものとしてのポップ・アート像を強く打ち出していた。
そして、僕は感じた。ポップ・アートってのは、大衆消費の薄っぺらさをより薄っぺらく露悪的に表現するジャンルである。で、前記の宝塚展に出品したアーティストたちは、ポップ・アート的な“薄っぺらさの露悪趣味”を受け継いだ人が多い。これに対し、大正期にスタートした宝塚歌劇は、パリ、ロンドン、ブロードウェイといった異国文化に日本人が憧れた、その最初の感情や衝動を反復する芸能と呼んでいい。そこでは、もはや現実のフランス、イギリス、アメリカとはかけ離れたユートピアが夢想され、その非在の王国を強引かつ無理矢理かつ闇雲に、“立体的に”再現する儀式として劇やショーが営まれる。目の周囲がやたら青いメイク、噛みつきそうなつけまつ毛といった宝塚ならではの見てくれは、書き割りやはりぼてと同様に、ユートピアの“立体的”再現を目指して行われるある種の呪術なのである。だから、そこに平気で“薄っぺらさ”を持ち込もうとするポップ・アート的現代アートがヅカ・ファンから生理的に嫌悪されるのは、当然といえば当然だ。
まだ上手く語ることができないけれど、宝塚を横におくと、ポップ・アートがどういう薄さを持っているのか、説明しやすくなると思うのだ。
(ところで花総まりはいつまで娘役トップをやるつもりなんでしょう? 轟悠みたいに専科に移ればいいのに……)