昨日、初めてみなとみらい線に乗り、横浜美術館でやっていたデュシャン展に行った。最終日だったと、今日になって気づいた。にぶいヤツである。
無料上映の「マルセル・デュシャン事件」(84年)を見る。ホームズ&ワトソンがデュシャンの業績を捜査するという趣向だが、この設定の分だけドキュメンタリーの展開が冗長になった気も。せっかく推理もの風にしたくせに、どんでん返しがあるわけでもないし。そもそも上映前に説明員が、映画の結末について「デュシャンの謎が解決されるわけもなく……」なんて喋っちゃうんだもの。ネタばれ、っつうか、ネタなしばれ(笑) はじめっから解決されないと知ってたら、探偵のおしゃべりにつきあう気が失せる。眠くなりました。
でも、デュシャンが衝撃を受けたという、レーモン・ルーセル作の舞台『アフリカの印象』ISBN:4560047340した部分は興味深かった(まぁ、興味深いのと、面白いのとは微妙に違うけど)。
展覧会自体はタイトル通り、デュシャン本人の作品を中心に、後の世代からのパロディやリスペクトも並べたもの。「階段を下りる裸体」を見て、ふと、レビューの典型的場面である階段で歌い踊るシーンを思い出した(宝塚のショーのフィナーレとか)。階段という人工的構造物にあわせ、足を運ぶからには、自然ではない人工的動作にならざるをえない。その意味で、階段を歩くだけでも、すでにある種のマシニズムが生まれている。レビュー的なものは、そんなマシニズムの延長で行われる。
そして、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」。このガラス作品には、「花嫁」とされる部分と、制服を着た「独身者たち」とされる部分があるわけだ。これも、1人のヒロインをめぐり、燕尾服を着た男たちが幾何学模様に散開して群舞する場面なんかに通じるところがある。
さらに、デュシャン本人が「ローズ・セラヴィ」と名乗り女に扮したりもしていたのだから、彼のアートはいろいろレビュー的なものとオーバーラップしていた。
僕が、デュシャン的な幾何学性と宝塚的な華麗さと両方を好きなのは、つまりレビュー的なマシニズム/性愛ファンタジーを好んでいるということなのだな、と今頃気づいた。
そういえば森村泰昌は、デュシャン展にも宝塚展(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20041213)にも出品していたな。いかにも、である。
- 3月21日夜の献立
- 3月22日夜の献立
(デュシャンがらみだから、と思って便器の表紙を大きく載せてみたが、直後に食事の記録が続くのはどうよ? という疑問がないでもない)