ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)
「総括」をキーワードとする「六〇年代的なるもの」から、70年代半ば〜80年代初頭までの消費社会的アイロニズム、80年代の消費社会的シニシズムへと時代の変遷を追ったうえで、90年代以降の「2ちゃんねる化する社会」における“ナショナリズム”をロマン主義シニシズムとして解釈した評論。ここで提示される図式は入り組んでおり、必ずしも呑み込みやすくないが、面白く感じる観点は少なからずあった。また、ラノベやアニメなどオタク・カルチャーに直接触れているわけではないが、世界と個人の関係性を問題にしている面で一種の「セカイ系」論ともなっている。
東浩紀椹木野衣と同じく、北田暁大id:gyodaiktも重要なポイントでコジェーヴに言及している(人気あるなぁ)。その終章で北田は、次のように記している。

「否定」の形式において人間的でありつつ、「歴史」において動物的であることは十分に可能なことなのだ。

「人間」が死に「歴史」が失われたからこそ、「人間」とか「歴史」という記号が呼び出されているのだ。

2ちゃんねるナショナリズムを、こう解釈すること自体は納得できる。ただ、近年の中国や韓国の反日運動ではネットが重要な役割を果たしている――という報道に接しながら本書を読んでいると、多少要望を言いたくなる。
『嗤う日本の〜』では、前の時代からどのように心性(北田の用語では「反省の形式」)が変化したか、という書き方が各章でリレーされていく。90年代以降をめぐる章では、80年代からの心性の変化とネット空間の普及が語られ、この時代の心性の成り立ちが分析される。僕の要望は、2ちゃんねるナショナリズムの成立において、心性の変化とネットの普及という2つのことがらがどんなバランスで作用しているのか、もう少し読ませてもらいたかったということ。
中国や韓国の現在進行形ナショナリズムでも、ネットを介するがゆえの「歴史」の記号化は行われているのだろう。しかし、両国が日本的な消費社会的アイロニズムシニシズムを通過していない以上、(当たり前の話だが)心性は異なるだろうし、中国、韓国と日本それぞれで「歴史」の記号化のありようも違うはず。そのズレが、国同士の摩擦においてどう働いているのか、気になるところ。ナショナリズムを問題化するなら、国内で自己完結した議論をしているだけでは不毛だし、国外を意識する必要があるのではないか(自己完結した空間で気持ちよさそうにしているナショナリズムを、まずは分析するところから始めましょう−−というのが本書のスタンスなのだろうけど)。
たぶん北田は今後、このへんの問題を書き込んでいくのだろうと、勝手に期待している。


ちなみに本書は、80年代論としてもけっこう面白かった。
西武-PARCOの戦略に触れた部分を読んでいたら、この本とはまるで関係のない個人的記憶まで蘇ってしまった。そういえば、津田沼PARCOの地下駐車場でヒカシューのライヴを見たな、とか(笑)。あそこではどういうわけか、80年頃、音響の悪い駐車場で「ガレージタイフーン」と銘打ったライヴ・シリーズを催していたのである。また、ヒカシューのライヴは確か、船橋西武の屋上でも見たな。というわけで、自分にとって80年代の西武戦略とは、ヒカシューにつきるのである(爆)。

  • 昨夜の献立
    • 鶏の照り焼き(しょう油、おろしニンニク、酒、黒糖、ラー油ゴマペースト、サラダ油)
    • 大根とキュウリの酢の物
    • ほうれん草のおひたし(かつぶし、ポン酢)
    • ニラ卵の味噌汁
    • さつまいものサラダ(レーズン、ヨーグルト)
    • ポテチ
    • 発泡酒&チューハイ
    • いちご(ホイップクリーム
  • 今夜の献立
    • いわしの丸干し
    • サラダ(レタス、きゅうり、わかめ、ハム。ドレッシング=マヨ+ポン酢+黒ゴマペースト+七味)
    • 大根の酢のもの
    • さつまいもサラダ
    • えのきととろろこぶの味噌汁
    • 玄米ごはん
    • いちご