ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

陣野俊史『フランス暴動』とあと何か

フランス暴動----移民法とラップ・フランセ
陣野俊史フランス暴動 移民法とラップ・フランセ』を読む。昨年発生したフランス郊外暴動については、ラップが悪影響を及ぼしていると批判されたという(同国では最近また、若者向け雇用政策でもめているが)。陣野のこの緊急レポートでは、フランスにおけるラップと郊外の若者の関係に迫ろうとしている。
フランスのヒップホップ事情は全然知らないので、とても興味深く読んだ。ただ、ヒップホップ受容の大衆化した部分には少ししか触れず、先鋭的な部分にばかりスポットを当てている。このため、本書で取り上げたラップが、フランスのポップ・ミュージック界でどんな地位にあるのか、いま一つ不鮮明なのは残念。――といっても、緊急出版しなければならなかったという事情や意気込みは納得できるので、そこまでのサービスは求めてはいけないのかもしれないが……。


気になったのは、フランスに対する日本の立ち位置を考えるため、第三章に挿入された志人インタビュー。降神(おりがみ)という、あまり有名とはいえないユニットのラッパー、志人(しびと)の言葉に、今後に向けたなんらかのきっかけを見出そうとする姿勢は、ラップの大衆化した部分をあえて無視し、陣野の考える先鋭的部分だけを取り上げた『ヒップホップ・ジャパン』ISBN:4309266908。大衆化した言葉に背を向け、少数派の声にこそ普遍性を求める態度には、平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20051130#p1)と近いものを感じる。
志人は、陣野のインタビューでこう語っていた。

自分がやりたいのは、フォークゲリラのような、新宿西口のあの光景を、この時代に見てみたい。

志人は同時に〔それには昔やっていたのと同じことをやっても仕方がないし、わからないだろうし〕とも語るのだが、

自分が生まれていなかった一九六〇年代や七〇年代の自意識のぶっ壊れ方、日本人の壊れ方というのは、今の時代からみても、あの頃はぶっ飛んでる。

と過去を美化している。
この発言を含むインタビューを自著に肯定的に組み込む陣野の態度に、やや違和感を覚える。“68年革命”的な社会変革への夢想に同伴するものと感じられてもいたかつてのフォークやロックの役割を、現在のヒップホップに期待しようというのだろうか。そんな期待は昔、挫折したのだし、それでもなお期待するものたちの(無反省ではない良質な)表現には、なんらかの屈折が含まれているように思う。だが、本書からは、あまり屈折を感じない。
僕にはむしろ、『土曜日の実験室 詩と批評とあと何か』ISBN:4900785342で、西島大介が書き殴っていたことのほうが、まだ共感できる。

反戦」も「非戦」も、あと「殺す・な」とかも、全然ダメだと思う。なんというか、それではお行儀が良すぎるのだ。世の中が滅茶苦茶なのに、それに応える側がお行儀良すぎては無理だ。

「NO!!WARなんてくだらないぜ、俺の歌を聴けー!!」と熱気バサラが世界の中心で叫ぶ――と題されたエッセイの一節である。西島は、ジョン・レノンの〈イマジン〉みたいな真っ当な反戦歌の発想の延長にある、坂本龍一の「非戦」、椹木野衣の「殺す・な」といったスローガンの無力を指摘する。
そして、

バサラは戦争を止めようとしているのではなくて、とにかく敵にも味方にも広く自分の曲を聴かせたいだけなのだ。

という文脈で、「戦闘なんてくだらないぜ、俺の歌を聴けー!!」と叫んだアニメのアホな登場人物の行動を賞賛する。
たとえ、リリックに重い意味がこめられていたとしても、言葉以上に声自体の発する殺気や倦怠感、悲哀といったものに反応するのが、ヒップホップ・リスナーだと思う。西島的な観点からすると、リリックの意味に力点を置いた陣野的なヒップホップ解釈は〔お行儀が良すぎる〕のではないか。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20060316