ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

藤田博史『人形愛の精神分析』

人形愛の精神分析
人形愛「の」精神分析というより、人形愛「と」精神分析――の印象。眼、皮膚、関節などパーツごとに話題を移しながら、人形創作者/愛好家に向け、ラカン派精神分の考えかたをわかりやすく伝えようとしている。その意味では、入門書の一種になっている。ただし、人間の身体論のほうに力点が置かれているため、人形愛自体に関する考察は、書名から想像するほど多くない。
とはいえ、球体関節に「切断」、「接合」、「去勢恐怖」という「男根」イメージを読み込むあたりは面白い。読み込んだ直後、

(前略)球体関節というのは一方向に曲げるためにスリットを入れるので、これがまさに女性の性器のイメージを象徴していて、一つで二つのイメージが内包されています。

なんて風に話をスライドさせるのだ。
また、尻に関する章では

確かにもしわれわれが四つ足で生きていたら、常に誰かの尻と目線が同じなのでつい気にしてしまうでしょうが、直立歩行をすることによって尻の高さと視線の高さがずれてしまったことで、視覚的な水準において性的な誘惑から自由になる。

と藤田は語る。これに対し、

(前略)さきほど、動物だとお尻のところに顔がいくということでしたが、だとすれば逆に考えれば、人間が他の人と間向かうとき顔にいくわけですから、顔が逆に尻であるということでしょうか。女性が口紅をつけるのは、猿の性器が興奮しているような状態を再現しているというようなことが、かなり陳腐な言い方かもしれませんが言われたりします。

と、セミネールの司会者が問い返しているのも楽しい。
球体関節の形状に雄雌の両性器を読み取り、尻と顔の親近性を指摘する本書の議論は、なるほど“人形愛”的といえる。藤田は言及していないが、後の関節人形作家たちに多大な影響を与えたハンス・ベルメールの発想こそ、そういうものだった。ベルメールは、身体のパーツのある場所をアナグラムみたいに入れ替えた奇怪な絵や人形を残したのだから。


一方、この本の終章には、藤田博史四谷シモン吉田良のシンポジウムが掲載されている。そこで吉田良が、同志だった故・天野可淡とのことについて語る部分が、ほんのわずかだけれどある。身体や人形に関する“一般論”が続く本書のなかで、いきなり“私”性がせり出すその場面は、(べつに変わった表現で話されているわけでもないのに)妙に生々しく感じられた。