ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

「近代文学の終り」と江戸文化

(2005/01/07記)
ファウスト Vol.4』ISBN:4061794469のは、太田克史編集長が柄谷行人の講演録「近代文学の終り」に対し、〔かなりの衝撃を受けました〕と語っていたことだ。太田の発言は、『ファウスト Vol.4』に掲載された矢野優との対談「1年と、100年。」において飛び出したものである。純文学雑誌「新潮」の編集長である矢野は、こう返している。〔イヤ味な言い方ですが、柄谷さんが「近代文学の終り」というふうにピリオドを宣言した後に、『ファウスト』が大躍進するというのはわかりやすい構図だと思うんですけどね〕。これに対し太田は、〔柄谷さんに対するアンチテーゼみたいなところをやっていかないといけないんじゃないか〕とある種の決意を表明していた。この男意気には、『ファウスト』系小説を応援したくなるが、私の今現在の関心はややズレたところにある。
柄谷行人はいっている。

近代小説が終ったら、日本の歴史的文脈でいえば、「読本」や「人情本」になるのが当然です。それでよいではないか。せいぜいうまく書いて、世界的商品を作りなさい。マンガがそうであるように、実際、それができるような作家はミステリー系などにはけっこういますよ。


近代文学の終り」(=2003年の講演記録に加筆したもの。「早稲田文学」2004年5月号)

たとえば、日本の場合、マンガが広がったことは、徳川時代の小説への回帰であるといえます。江戸の小説は、絵入りで、ほとんど会話だけで成り立っている。


「同」

柄谷はここで、「近代文学の終り」と同時に江戸文化への回帰を指摘している。「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」を標榜する“絵入り”雑誌『ファウスト』に関しても、柄谷ならば当然、回帰現象の一つにすぎないと断じるであろう。この柄谷講演録に対しては、「ユリイカ増刊 総特集西尾維新ISBN:4791701240を試みていたが、それへの言及は後回しにして、まず紹介しておきたい発言がある。
芦辺拓はいっている。

現在のキャラ萌えとか同人誌、ライトノベルの問題は、二十世紀末から二十一世紀にかけての突出した現象と見るのが普通ですよね。でも、日本人の物語消費の仕方は昔と本質的に変わっていないんですよ。それは歌舞伎を見ればよくわかるので、江戸時代の芝居小屋に来るお客は、お気に入りのキャラクターやシーン意外では、弁当を食べたり、おしゃべりしたりしていた。現代風にいえば、自分が萌えるところしか見なかったわけでね(笑)。
(略)
作家のあり方も似たようなものでね。現在のハードカバーが読本だとすれば、女性や子供の支持を得た合巻や絵草紙がライトノベルに相当するわけです。


インタヴュー「本格」Man of the Year 2004(『2005本格ミステリ・ベスト10』)

本格ミステリ・ベスト10 (2005)
柄谷は「近代文学」の側から、芦辺は物語作者の側から、現在のライトノベルや『ファウスト』系小説は、新しくない江戸文化の回帰だと主張している。二人の主張が、べつに間違っているとは思わない。ある角度、ある拡大倍率で現在の小説シーンを観察すれば、そのように見立てられるということだ。
それにしても居心地が悪いのは、よりによって、柄谷と芦辺が同様の指摘をしているこの風景だ。芦辺は、現在の本格ミステリ界において最保守派にして物語至上主義者である。ジャンル小説アヴァンギャルド化には否定的なうえ、ゲーデル不完全性定理を応用するような(法月綸太郎など)、現代思想のミステリ評論への導入にも批判的な態度をとっている。その芦辺が、ゲーデル問題を日本に広めた本家である柄谷(『隠喩としての建築』)と、現代小説の江戸文化への回帰をめぐって、よく似た発言をしている。どうにも、皮肉な風景である。
ライトノベルや『ファウスト』系小説の周辺に広がっている論評の地平は、どうも磁場が狂っているらしい。